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小川 笙船(おがわ しょうせん、寛文12年(1672年) - 宝暦10年6月14日(1760年7月26日))は、江戸時代の町医者で漢方医。「赤ひげ先生」の愛称で知られる。諱は弘治。小川祐忠の子孫。 == 生涯 == 寛文12年(1672年)、小川利重の子として生まれる。 享保7年(1722年)1月21日、目安箱に江戸の貧困者や身寄りのない者のための施薬院を設置することを求める意見書を投書した。それを見た徳川吉宗は、南町奉行・大岡忠相に養生所設立の検討を命じた。翌月、忠相から評定所への呼び出しを受け、構想を聞かれたため、 # 身寄りのない病人を保護するため、江戸市中に施薬院を設置すること # 幕府医師が交代で養生所での治療にあたること # 看護人は、身寄りのない老人を収容して務めさせること # 維持費は、欲の強い江戸町名主を廃止し、その費用から出すこと と答えたが、町名主廃止の案に対して忠相は反対した。しかし、施薬院の案は早期から実行し、吉宗の了解を得た。 同年12月21日、小石川御薬園内に養生所が設立され、笙船は肝煎に就任した。しかし、養生所が幕府の薬園であった土地にできたこともあり、庶民たちは薬草などの実験台にされると思い、あまり養生所へ来る者はいなかった。その状況を打開するため、忠相は全ての江戸町名主を養生所へ呼び出し、施設や業務の見学を行わせた。そのため、患者は増えていったが、その内入所希望者を全て収容できない状況に陥ってしまった。 享保11年(1726年)、子の隆好に肝煎職を譲って隠居し、金沢へ移り住んだ。以後、養生所肝煎職は笙船の子孫が世襲した。その後、病に罹って江戸へ戻った。 宝暦10年(1760年)6月14日、病死。享年89。小石川の光岳寺に葬られ、太寧寺 に分骨されたという。後に雑司ヶ谷霊園へ改葬された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小川笙船」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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