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小川 精一(おがわ せいいち、1952年7月28日 - )は、大分県別府市〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、122ページ〕出身の元プロ野球選手。尚、プロ入り前の名前は、「小川 清一(※読みは上記と同じ)」であった。 ==来歴・人物== 大分商業高校では1970年、エースとして第52回全国高等学校野球選手権大会に出場。この大会では、1回戦の九州工(福岡)戦で市橋秀彦投手と延長15回の投手戦を展開、5-1で勝利する。2回戦の日大一高(東京)戦でも、保坂英二投手に投げ勝ち完投勝利。しかし準々決勝ではPL学園(大阪)の新美敏、田代克業両投手の継投の前に、0-7で完封負けを喫した〔。同年秋の岩手国体では、決勝でまたもPL学園に1-2で惜敗し準優勝。同年のドラフト会議で、阪神タイガースの6位指名を受け、入団〔。 3年目の1973年に1軍戦初登板を果たし、翌1974年は22試合に登板した。同年暮れ、鈴木皖武・上辻修・森山正義・平山英雄と共に、池辺巌・井上圭一との5-2の交換トレードでロッテオリオンズに移籍〔。オリオンズでは中継ぎとして活躍し、プロ初勝利を含む6勝を挙げた。1979年オフ、小俣進・庄司智久・田村勲との交換トレードで古賀正明と共に3チーム目の読売ジャイアンツに移ったが、ジャイアンツでは公式戦登板の機会に恵まれなかった〔。1980年限りで現役引退。その後もジャイアンツに残り、1年ほど打撃投手を務めた。 右オーバースロー、速球主体の本格派でストレートとカーブが得意球。スライダー、シュート、パームボール。但しパームボールについては阪神時代に小山正明より教わったが実戦で生かされないままだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小川精一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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