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小幡 篤次郎(おばた とくじろう、1842年7月15日(天保13年6月8日) - 1905年(明治38年)4月16日)は、幕末の中津藩士。明治時代の政治家(貴族院議員)・教育者・思想家。第3代慶應義塾塾長。小幡甚三郎の兄。号は箕田。 == 生い立ち・経歴 == 1842年(天保13年)、豊前国中津藩殿町(大分県中津市殿町)に、中津藩家老・小幡氏の中津藩士で、供番・元締兼郡奉行を務める小幡篤蔵の次男として生まれる。幼時から父に四書五経を習い、中津藩の藩校・進脩館(しんしゅうかん) で藩儒・野本真城、野本三太郎、藩士・古宇田姑山らに就き漢学を学び、教頭となるが、1864年(元治元年)、福澤諭吉の勧めで江戸に出る。江戸では福澤の塾に入って英学を学び、塾長を務める(1866年(慶応2年)から1868年(慶應4年/明治元年)まで)。また、江戸幕府の教育機関である開成所で弟・甚三郎とともに洋楽助教にもなった。 1868年出版の著書『天変地異』は、雷、地震、彗星、虹といった自然現象について、「婦人小児の惑を」解くためのわかりやすい科学的解説を与えた本である。当時広く信じられていた陰陽五行思想を退け、近代的な科学知識を広めようとした本で、明治時代初めの科学啓蒙書ブームの先頭を切った。学制発布時には、小学校の教科書にふさわしい本の一つとして挙げられた〔鳥越信・編『たのしく読める日本児童文学』(戦前編)、ミネルヴァ書房、2004年、4-5頁。〕。 1876年(明治9年)の東京師範学校中学師範科が創立される際には、その校務に参画。同年、ヨーロッパを歴遊しアメリカを経て帰朝する。1879年(明治12年)には初の東京学士会院会員に選ばれ、翌年には交詢社創立に参与して幹事に推挙される。1890年(明治23年)9月29日〔『官報』第2182号、明治23年10月6日。〕、学識者として貴族院議員に推される。貴族院内部では、谷干城・三浦安・山川浩と共に懇話会に所属。貨幣制度調査委員となり、日本郵船の役員を兼ねる。勲四等瑞宝章を受ける。 その前年の10月には病に伏せった小泉信吉の代理として慶應義塾塾長の代理となり、1890年(明治23年)3月には重ねて慶應義塾長となる(1897年(明治30年)10月まで)。1898年(明治31年)4月慶應義塾副社頭に、さらに1901年(明治34年)には社頭となって慶應義塾では福澤に次ぐ中心人物となった。晩年、死期が近づくと、蔵書の半分を旧宅地とともに故郷・中津に寄附し、図書館を設立するよう指示(蔵書の残り半分は慶應義塾に寄附)。これが現在の中津市立小幡記念図書館のもととなった。 1905年(明治38年)4月16日、病気のため死去。享年64。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小幡篤次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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