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小杉未醒 : ミニ英和和英辞書
小杉未醒[めざめ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [すぎ]
 【名詞】 1. Japanese cedar 2. cryptomeria japonica 
: [ひつじ, み, いま(だ)]
 【名詞】 1. not yet 

小杉未醒 ( リダイレクト:小杉放庵 ) : ウィキペディア日本語版
小杉放庵[こすぎ ほうあん]

小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年明治14年)12月30日 - 1964年昭和39年)4月16日)明治・大正・昭和時代の洋画家。本名は国太郎、別号に未醒、放菴。俳優の小杉義男は甥。
== 略伝 ==
栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に二荒山神社の神官・富三郎の子として生まれる。父は国学者でもあり、1893年(明治26年)から1897年(明治30年)にかけては日光町長も務めていた。
1896年(明治29年)から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となるが、五百城に無断で出奔、上京して白馬会洋画研究所に入る。しかしこれに馴染めず、肺尖カタルをも患ったため帰郷。再び五百城の元に戻る。1900年(明治33年)に今度は許可を得て再度上京し、小山正太郎の不同舎に入門する。1902年(明治35年)に太平洋画会に入会し1904年(明治37年)に未醒の号で出品する。
なお、1903年(明治36年)からは国木田独歩の主催する近時画報社に籍をおいて挿絵を描き、漫画の筆もとっている。1905年から始まった日露戦争には、『近事画報』誌の従軍記者として戦地に派遣され、迫真の戦闘画や、ユーモラスな漫画的な絵などで、雑誌の人気に大きく貢献した。また、同1905年には美術雑誌『平旦』を石井柏亭鹿子木孟郎らと創刊した。
1908年(明治41年)に美術誌『方寸』の同人に加わり、この年から文展に出品し、第4回展で3等賞、第5回展で『水郷』、第6回展で『豆の秋』と題した作品が続けて2等賞となる。1913年(大正2年)にフランスに留学するが、当地で池大雅の「十便図」を見たことがきっかけで、日本画にも傾倒。翌年の帰国後は墨絵も描き始めるようになる。同年、再興された日本美術院に参加し、同人として洋画部を主宰する。また、二科会にも同時に籍を置いていた。
その後、絵に対する考え方の違いから1917年(大正6年)に二科会を、1920年(大正9年)には日本美術院を脱退し、1922年(大正11年)に森田恒友山本鼎倉田白羊足立源一郎らとともに春陽会を創立する。1924年(大正13年)に号を放庵と改めたが、これは親友である倉田白羊が一時期使っていた「放居」という雅号から「放」の字を貰って付けたものである。なお、雅号は後に放菴と更に改めているが、その時期や理由については不明。
1925年(大正14年)、東京大学安田講堂の壁画を手がける。1927年(昭和2年)には、都市対抗野球大会の優勝旗である「黒獅子旗」のデザインを手がけた。
1929年(昭和4年)に中国へ旅行。1935年(昭和10年)に帝国美術院会員。第二次世界大戦中に疎開のため新潟県赤倉に住居を移し、東京の家が空襲で失われたため戦後もそのまま暮らす。ここで、新文人画ともいうべき独自の水墨画を残した。
1958年(昭和33年)、日本芸術院会員を辞任。1964年(昭和39年)、肺炎のため死去。墓所は日光市所野字丸美。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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