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小村 欣一(こむら きんいち、1883年(明治16年)5月13日 - 1930年(昭和5年)12月29日)は、大正・昭和初期の外交官、貴族院議員、華族(侯爵)。 == 人物 == 明治期の外交官、小村寿太郎の長男として生まれた。日本中学、一高を経て、1907年(明治40年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業、成績優秀につき銀時計を賜った。同年11月、外交官試験に合格、外交官補になり中国に赴任。翌年、英国の日本大使館に赴任した。 1911年、父が危篤になり帰国。父の死後、同年12月22日に侯爵を継ぎ、貴族院侯爵議員(1911年12月22日 - 1930年12月29日)となった〔『官報』第8555号、明治44年12月25日。〕。外務省では政務局第一課長、情報部長などを歴任。1929年、拓務省が設置されると朝鮮部長、次官に就任した(当初の拓務大臣は田中義一首相が兼務)。次の濱口内閣でも拓務次官に留任〔経歴は主として1930年12月30日読売新聞より。〕。 この間、中野正剛の東方会(1917年)に参加、また東亜同文会理事を務めた。演劇が趣味で国民文芸会(1919年)に加わり、国立劇場設置運動を推進したが、関東大震災のため実現しなかった〔木村敦夫「文化政策としての「国民文芸会」の活動」〕。演劇界、文芸界、美術界などに顔が広く、「外務省きっての名物男」〔1923年5月10日読売新聞〕と呼ばれた。 1930年(昭和5年)12月29日に急逝。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小村欣一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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