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小林 橘川(こばやし きっせん、1882年(明治15年)10月1日 - 1961年(昭和36年)3月16日)は、ジャーナリストとして活動し戦後名古屋市長(1952年(昭和27年)9月 - 1961年(昭和36年)3月)に就任した。 == 生涯 == 小林橘川は、1882年(明治15年)滋賀県野洲郡守山町(現滋賀県守山市)の漢方薬商山本藤右衛門の三男として生まれた。1884年(明治17年)浄土宗多門寺(現滋賀県野洲市)小林麗海の養子となり海音と改名した。その後、浄土宗高等学院(現大正大学)入学するが中退し、小学校教員、京都府内の極楽寺住職を経て、ジャーナリストとしての才覚を発揮し1905年(明治38年)には「近江新報」主筆となり、県政批判の筆を揮った。1911年(明治44年)名古屋新聞に転じ1914年(大正3年)より「名古屋新聞」主筆を経て、1942年(昭和17年)政府の指導で「新愛知新聞」と合併した「中部日本新聞(現中日新聞)」の取締役となった。 当時、「新愛知」は政友会を、「名古屋新聞」は憲政会(のちの民政党)を支持し、あたかも政党新聞のような論戦を展開し発行部数の獲得合戦を行っていた。その中で、橘川は名古屋新聞主筆として、大正デモクラシーの時代に、民本主義を唱えた吉野作造を支持して名古屋の中京教会で吉野の講演会を開催したり〔「国文学(43) 1968年3月」 P49「葉山嘉樹と名古屋労働者協会-資料紹介「街路に立ちて」「神戸労働争議エビソート」」(関西大学国文学会)〕、「名古屋新聞」紙上で民本主義理論を積極的に紹介した。 橘川は、電車賃値上げを批判、その後婦人運動、労働運動などに関与し1920年(大正9年)名古屋労働者協会を創立した〔。1930年(昭和5年)副社長となるが、反軍思想から憲兵隊の監視対象にされた。橘川は一途に理想を主張するのではなく、反軍の論陣を張りながらも現実との折り合いをつけていった。やがて戦争へ進む流に絶望し、「個人としては平和を欲求するが、集団としては戦争に投げ込まれる……それが運命だ」と、「諦めの言論」に転換していった〔「総合ジャーナリズム研究18(4) 1981年10月」 P114「小林橘川と「名古屋新聞」-戦時下、ある自由主義ジャーナリストの敗北 門奈直樹」(総合ジャーナリズム研究所編 東京社)〕。終戦後1947年(昭和22年)公職追放されたが、1950年(昭和27年)追放解除され、すぐに政治の表舞台に登場し、1952年(昭和27年)9月革新系無所属の立場で名古屋市長に当選した〔。戦災により破壊された名古屋の復興という現実と政治的役割を認識し、政策を果敢に実行していった。橘川は死去した1961年(昭和36年)3月16日まで8年半名古屋市長として在任した〔。1956年(昭和31年)の市長選では、尾張徳川家の徳川義親を破って当選している。 ;小林橘川が係った主な事業 * 橘川は、戦災で焼け野原となった都心部に、世界に例のない巨大道路群を建設し、。手始めに名古屋城南側、官庁街に沿い片側50m(当初片側6車線)の道久屋大通(100m道路)を築き、これを基準に若宮大通、伏見通、桜通、錦通広小路通なども拡張され、世界有数の道路優先都市ができた「名古屋都市計画史 上巻」(名古屋市建設局編 名古屋市建設局 1957年)。名古屋の道路面積割合は札幌市と並んで全国トップクラス。 * 1957年(昭和32年)11月15日、名古屋市営地下鉄東山線名古屋駅 - 栄町駅(現在の栄駅)間 (2.4km)で開業した(橘川在職中池下駅まで延伸)。 * 名古屋城天守閣再建計画が盛り上がり、燃えない城を築いて郷土の博物館としたらよいのではという再建賛成論を踏まえ、当時の市長であった小林橘川も観光の目玉としたいとする思惑もあり再建することになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小林橘川」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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