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小林為太郎(こばやし ためたろう、1908年4月10日 - 1985年11月12日 )は、日本の弁護士である。 高知県幡多郡下川口村大津(現在の土佐清水市)出身。長男は元・タレント漫才師の上岡龍太郎。 ==人物・来歴== * 1908年(明治41年)4月10日、上岡岩吉、マサノの三男として出生。 * 高等小学校卒業後、暫く村の三等郵便局に勤務するが、18歳まで薩摩芋を作ったり、天草をとったりイカ釣りをしていた。その間、独学で小学校教員資格試験を三度受験。 * 1926年(大正15年)3月、働きながら勉学する決心をして高知市に出る。キリスト教系団体によって運営されていた『学生労働会』に入り、牛乳配達をしながら自学する。近郷出身の幸徳秋水が大逆事件で刑死したことや、普通選挙法目前にした大正デモクラシーの影響を受け、マルクス主義に近づいていく。 * 同年8月、高知県立城北中学(現・高知県立高知小津高等学校)二年の編入試験に合格。(旧制)中学生となりますますマルクス主義の影響を受け、『学生労働会』で行われるキリスト教の集会や礼拝を嫌った結果、「反宗教的行動」として追放される。 * 1930年(昭和5年)3月、城北中学卒業。 * 同年4月、高知高等学校入学。弁論部に入部。二年の時に左翼雑誌『戦旗』を購読していたとして検挙され、学校側から謹慎を申しつけられる。「左翼運動を行わないならば月謝を免除する」と告げられるが「青春と月謝を肩代わりできない」と拒絶する。 * 1933年(昭和8年)、高知高等学校を卒業し、京都帝国大学(現・京都大学)法学部に入学。5月、滝川事件が起こる。7月、学生集会で「罷免教授を中心に自由学園を作るというのは敗北主義だ」と演説。この頃から弁護士になることを目指す。 * 1936年(昭和11年)、京都帝国大学卒業。極端な不況の中、岐阜市役所に就職するが、勉強する時間がとれないため、京都市の小学校代用教員となり京都に戻る。 * 1937年(昭和12年)、宮崎県の生糸問屋の一人娘、小林タマと結婚。小林家に養子に入る。刑法研究の名目で京都帝大大学院に入り司法試験の勉強を続ける。 * 1939年(昭和14年)4月、臨時召集により熊本にあった第六騎兵連隊に赴くが、体重超過(25貫・約94㎏)のため即日帰京。 * 1940年(昭和15年)、司法試験合格。大阪弁護士会高山義三法律事務所に試補として入る。 * 1942年(昭和17年)3月、長男・龍太郎誕生。7月、大阪弁護士会に登録。 * 1944年(昭和19年)10月、家族を宮崎に疎開させる。 * 1945年(昭和20年)、京都弁護士会に登録変更。共産党京都地方委員会の小松雄一郎から入党の勧誘を受けるが「政治活動未経験で旧憲法下で獄中生活もしていない私のような小市民よりも、労働者農民学生を加入させるべき」と、京都大学学生の若杉光夫(のちに映画監督)を推薦。 * 1946年(昭和21年)1月、共産党入党。4月、新選挙法による総選挙に共産党公認候補として京都全府一区に立候補。宮崎に小林家が所有していた宅地を売り払い共産党に一万五千円納入するが、はじめは党主催の演説会に出席を許されないなど優遇されず、最終的に二名連記制の選挙区に共産党は3人目の候補を擁立。天皇制廃止と隠退蔵物資の摘発を主意にした演説を繰り返すが僅か1万400票しか得られずに落選。自由法曹団に入団。 * 1947年(昭和22年)4月、戦後二回目の選挙にふたたび出馬する。二区制になった京都一区から立候補。選挙運動中に米軍に引致され日独会館の一室に一晩抑留される。1万400票の次次点で落選。「共産党候補でいると好きな酒もつつしまねばならぬし服装も何事もキチンと整えていかねばならな」い気苦しさから候補者を辞任する。 * この頃より、能勢克男弁護士とともに京都における市民・労働者・学生・農民・在日朝鮮人などに対する弾圧、人権抑圧に関わる諸事件を一手に引き受け、京都府下は勿論、滋賀県、福井県と駆け回る。1960年に柴田・莇法律事務所が開設されるまでの京都における民主的法曹の中心的役割を果たした。時には交通費食費に至るまで自弁で弁護を引き受けたが、弁護料を支払わずとも、事件の節目に挨拶しない依頼者を叱ったという。 * 1954年(昭和29年)7月、妻・タマ、乳がんのため死去。 * 1963年(昭和38年)2月、自由法曹団京都支部結成の呼びかけ人となり同団支部の基礎を形作る。 * 京都法曹ペンクラブ発行「スバル」「土曜日」等に多数の随筆、短歌などを発表している。 * 1985年(昭和60年)11月12日、炬燵でテレビの大相撲中継を見ている最中に死亡。最後の言葉は「朝潮が勝った」 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小林為太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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