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小林逸翁 : ミニ英和和英辞書
小林逸翁[おきな]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はやし]
 【名詞】 1. woods 2. forest 3. copse 4. thicket 
: [おきな]
 【名詞】 1. old man 2. venerable

小林逸翁 ( リダイレクト:小林一三 ) : ウィキペディア日本語版
小林一三[こばやし いちぞう]

小林 一三(こばやし いちぞう、1873年明治6年)1月3日 - 1957年昭和32年)1月25日)は日本実業家政治家阪急電鉄宝塚歌劇団阪急百貨店東宝をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。日露戦争後に大阪に出て、鉄道を起点とした都市開発、流通事業を一体的に進め、六甲山麓の高級住宅地、温泉、遊園地、野球場、学校法人関西学院等の高等教育機関の沿線誘致などを電鉄に連動させ日本最初の田園都市構想を実現し、相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げた。政界では、第2次近衛内閣商工大臣を務めて革新官僚の商工次官・岸信介と対立、1941年(昭和16年)から貴族院勅選議員幣原内閣国務大臣、初代戦災復興院総裁を歴任したが、戦後公職追放となった。
逸翁、別号に靄渓学人靄渓山人。旧邸雅俗山荘は逸翁美術館
== 概要 ==

阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道をはじめ、交通、住宅地経営の不動産業、阪急百貨店の小売業、東宝宝塚歌劇団阪急ブレーブスの興行業など、阪急東宝グループを成す数多くの事業を興したことで知られる。
小林は「乗客は電車が創造する」との言葉を遺しており、沿線の地域開発により人口が増加し、その住民の需要を満たすことに商機を見出していた。彼が起こした事業は多岐に及ぶがいずれもこの動線を捉えたものであり、これは日本の私鉄経営モデルの祖として後に他が倣うところとなった。また小林は事業に取り組むに当たっては実に細かい点にまで顧客志向の注意と配慮を行っており、商品開発に独特の才覚があったことが著作や評伝から窺われる。
小林は阪急東宝グループの各事業での成功により財界で重きをなすに至り、グループ以外にも東京電燈の経営に参画したり、国政で商工大臣、無任所の国務大臣を務めるなど、財界の重鎮としても活躍した。
明治時代には若尾逸平根津嘉一郎ら山梨県出身の実業家が郷土意識に基づく緩やかな資本提携により経済界や東京府政に影響力を持ち甲州財閥と呼ばれているが、小林は関西を中心に活動した地方財閥と見なされているため、甲州財閥とは区別される〔ただし決して関係がなかったとは言えず、小林と根津はを通じて親密な関係にあった。小林が設立したナニワ工機(現・アルナ車両)で製造された鉄道車両が、根津が社長を務めていた東武鉄道へ数多く納入されていたことからも、両者の間には深い関係があったことが窺える。〕。
実業界屈指の美術蒐集家、また茶人としても知られ、集めた美術品の数々は、彼の雅号をとって「逸翁(いつおう)コレクション」と呼ばれている。これらを集めた「逸翁美術館」が、彼の旧邸・雅俗山荘があった大阪府池田市にあり、美術館は以前は雅俗山荘の建物が使用されていた。雅俗山荘は小林一三記念館として一般公開されている。
近代日本料理の創始者とも言われる湯木貞一と親交が深く、彼が開いた料亭吉兆の初期の頃からの客であった。上客でもあったため、当時の料亭内では小林を「神様」と呼んでいた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小林一三」の詳細全文を読む




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