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小林 錡(こばやし かなえ、1888年3月3日 - 1960年10月25日)は、日本の政治家、検察官。衆議院議員(通算8期)、裁判官弾劾裁判所裁判長などを歴任した。 == 概要 == 愛知県西加茂郡寺部村(現・豊田市)に生まれる。東京府青山師範学校卒業。1912年(明治45年)、日本大学法文学部英法科卒業。文官高等司法科試験に合格後、ドイツに留学しベルリン大学法科で欧米各国における政治経済法律を研究する〔『愛知新聞』1960年10月27日〕。1926年(大正15年)、同大学卒業。帰国後、日本大学教授に就任。1927年(昭和2年)、ベルリン大学留学時代に知り合った文科の学生のゲルト・ルードと結婚。そののち東京地方裁判所検察局の検事となる。 1930年(昭和5年)2月20日に行われた第17回衆議院議員総選挙に旧愛知4区から立憲政友会公認で出馬し初当選。1932年(昭和7年)、1936年(昭和11年)と当選を重ねるが、1937年(昭和12年)と1942年(昭和17年)の総選挙は落選。 戦後、最初に行われた1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に大選挙区制の旧愛知2区から出馬し当選。6月4日、第1次吉田内閣の商工政務次官に就任。しかし公職追放を受けたため、1947年(昭和22年)3月4日に同職を辞任。1947年の総選挙と1949年(昭和24年)の総選挙にも出馬することができなかった。1951年(昭和26年)、公職追放解除。1952年(昭和27年)と1953年(昭和28年)の選挙で当選。1955年(昭和30年)2月27日に行われた総選挙では落選。ところが当選者の永田安太郎が同年5月13日に死去したため繰り上げ当選を果たす。1957年(昭和32年)、第46回列国議会同盟会議に日本議員団長として参加〔。 1958年(昭和33年)の総選挙も当選。議員在職中、衆議院法務委員長や裁判官弾劾裁判所裁判長、日本大学法学部長などの要職に就いた〔。 衆議院解散翌日の1960年(昭和35年)10月25日、脳出血により東京都品川区の自宅で死去。。地盤は同郷の浦野幸男が引き継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小林かなえ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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