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小森 白(こもり きよし、1920年1月27日 - 2003年)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである〔キネマ旬報社, p.165-166.〕〔国書, p.54-78.〕〔''小森白''、''大滝翠''、日本映画データベース、2013年3月11日閲覧。〕〔''小森白''、''大滝翠''、日本映画情報システム、文化庁、2013年4月25日閲覧。〕〔''小森白''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年4月25日閲覧。〕。別名大滝 翠(おおたき みどり)〔。映画監督として活動した20年間に、60本の映画を監督した〔〔。東京興映創立者・社長〔。 == 人物・来歴 == 1920年(大正9年)1月27日、東京都世田谷区太子堂に生まれる〔〔。 少年期に中華民国・北京市に移り、旧制・北京日本中学校(1945年廃校)を1933年(昭和8年)に卒業、東京に戻り、第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)3月、法政大学経済学部を卒業し、同年4月、満24歳のときに東宝に入社する〔。終戦後、1946年(昭和21年)、新東宝(当時は新東宝映画製作所)の設立に参加、溝口健二、阿部豊、田中重雄、中川信夫らの助監督を務める〔。 1953年(昭和28年)、33歳で監督に昇進、伊藤雄之助主演のコメディ映画『一等女房と三等亭主』でデビューする〔〔〔。1958年(昭和33年)、大蔵貢が経営する別会社富士映画に出向、久保菜穂子主演の『太陽娘と社長族』等を監督した後に、翌1959年(昭和34年)、新東宝に復帰した〔〔。1961年(昭和36年)の新東宝倒産まで、富士映画作品も含めて27本を監督する〔〔〔。 1962年(昭和37年)、富士映画の後身、大蔵映画で『太平洋戦争と姫ゆり部隊』を監督、翌1963年(昭和38年)には、グァルティエロ・ヤコペッティの『世界残酷物語』をヒントに、アーカイヴ・フッテージで構成した『日本残酷物語』を中川信夫らと共同監督し、新東宝興業(現在の新東宝映画)が配給した〔。 1964年(昭和39年)、44歳のときに小森白プロダクションを設立、初期のピンク映画『日本拷問刑罰史』を監督する〔〔。1966年(昭和41年)3月8日、東京興映(中央区銀座東4丁目4番地、現在の銀座4丁目9番2号)を設立、代表取締役に就任、同社でピンク映画を8年間で24本を監督した〔〔。1973年(昭和48年)には、監督としては同年1月に公開した山本晋也・堀越善明との共同監督作品『日本猟奇事件』、製作者としては同年12月に公開した堀越善明が監督した『実録拷問性犯罪』を最後に同社の活動を停止し、満53歳で事実上引退している〔〔〔1973年 公開作品一覧 391作品 、日本映画データベース、2013年3月11日閲覧。〕。その後、晩年は、アパートおよびマンションの経営者となった〔。 2003年(平成15年)、死去する〔。満83歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小森白」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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