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小槻 奉親(おつき の ともちか、応和3年(963年)-万寿元年12月(1025年1月))は、平安時代中期の官人。算博士小槻忠臣の子。正五位下左大史兼算博士。 == 経歴 == 蔵人所出納などを歴任後、正暦元年(990年)までに右少史になっており、翌2年(991年)には右大史に進む。長徳元年(995年)には外従五位下左大史となり、間もなく従五位下(大夫)に叙されて大夫史となった。長保元年(999年)には穀倉院別当を兼務、更に算博士を兼ねた。後に大夫史のまま淡路守に任ぜられて任地に赴くが、寛弘8年(1011年)、淡路国からの帰京途中に突然発心して平安京に戻らずそのまま延暦寺横川に入って出家してしまった(『権記』)。万寿元年12月26日(1025年1月28日)の後一条天皇の北野行幸の際に行事史(儀式などにおける実務担当の史)を務めていた息子の小槻貞行が父親である奉親の死去を報告せずに職務を行ったことが問題となっている(『小右記』)ことから、同日あるいはその数日前に死去したと考えられている。 後世、官務(大夫史)を世襲して「官務」と称された小槻氏では、奉親を初代の官務として尊ばれている。実際に世襲が確立されて官務家が成立するのは、孫の小槻孝信の時代と推定されているが、その背景には奉親が長期にわたる左大史在任中に関わった官文書(公文書)を自宅に保管・整理していたことによって太政官における先例の蓄積がその子孫に伝えられていた(当時の貴族が官文書を自宅で保管することは広く行われていた)ことによる部分が大きいとされている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小槻奉親」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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