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小澤 得二(おざわ とくじ、1893年10月11日 - 1979年4月19日)は、日本の映画監督、脚本家、編集技師、元俳優である〔キネマ旬報社, p.101-102.〕〔映画世界社, p.163.〕〔''小沢得二''、''jlogos.com'', エア、2013年3月29日閲覧。〕〔''小沢得二''、日本映画データベース、2013年3月29日閲覧。〕〔''小沢得二''、日本映画情報システム、文化庁、2013年3月29日閲覧。〕〔''小沢得二''、KINENOTE, 2013年3月29日閲覧。〕〔''小澤得二''、''小沢得二''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年3月29日閲覧。〕。新漢字表記小沢 得二〔〔〔〔〔。本名小澤 得壽(おざわ とくじゅ)〔。 == 人物・来歴 == 1893年(明治26年)10月11日に生まれる〔〔〔。生地は伝えられていない〔〔。 1913年(大正2年)、上山草人が主宰する近代劇協会に参加、5年間にわたって新劇俳優としてのキャリアを積む〔〔。1920年(大正9年)、国際活映に入社し、佐藤紅緑の弟子であり日活向島撮影所出身という、新派系の演出家・脚本家の桝本清に師事する〔〔。1923年(大正12年)2月15日に公開された『涙の親子』で監督に昇進〔、とのことであるが、前年の1922年(大正11年)5月20日に公開された労資協調会宣伝映画製作の劇映画『人の心』を監督した記録がある〔。同年、松竹蒲田撮影所に移籍し、移籍第1回作品として『お転婆娘』を監督、同年8月7日に公開されたが〔、同年9月1日に起きた関東大震災に被災して同撮影所の機能は京都の下加茂撮影所、小澤もこれにともなって京都に異動した〔〔。翌1924年(大正13年)春には復興した蒲田撮影所に戻るが、同年秋には、帝国キネマ演芸に移籍、大阪の小坂撮影所に所属した〔〔〔〔。1925年(大正14年)、同撮影所は閉鎖され新会社・東邦映画製作所に移行したが、新会社がすぐに解散したので、直木三十三(のちの直木三十五)の主宰する聯合映画芸術家協会に参加、麻生豊の漫画を原作にした『ノンキナトウサン 活動の巻』を監督している〔〔。1927年(昭和2年)には、阪東妻三郎、立花良介、カール・レムリによる合弁会社・阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画に参加、同社の合弁解消後は、阪東妻三郎プロダクションの太秦撮影所(現在の東映京都撮影所)で引き続き現代劇を中心に演出した〔〔〔。 1928年(昭和3年)、独立して小澤映画聯盟を設立、女優の五月信子らとともに長谷川伸や佐藤紅緑の小説を原作とした映画を製作、監督したが、長続きはできなかった〔〔〔。翌1929年(昭和4年)の解散後は、東京に移り、河合映画製作社に入社、同年10月11日に公開された『血の曲芸団』を第1作として、その後短期間に映画を量産する〔〔〔。1931年(昭和6年)からしばらく、東京シネマ商会で数本手がけるが、河合へ戻る〔〔〔。1933年(昭和8年)には、河合が改組して大都映画になると、同社に継続入社したが、翌1934年(昭和9年)には退社して、記録映画(ドキュメンタリー映画)に転向している〔〔〔。田中純一郎が執筆した『日本映画監督全集』(キネマ旬報社)の小澤の項目には、1938年(昭和13年)8月4日に公開された『起ち上る蒙古』を最後に引退した、という旨の記述があるが〔、ほかにも記録映画に関わった記録が残っている〔。 第二次世界大戦終了後も、1952年(昭和27年)に『文楽 人形遣いの妙技』(監督長島豊次郎、配給松竹)に関わり〔フィルムで見る20世紀の日本 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年3月29日閲覧。〕、1955年(昭和30年)には『カメラ誕生』(製作読売映画社、配給松竹、1957年公開)を演出した記録が残っている〔。 1979年(昭和54年)4月19日、脳血栓により死去した〔。満85歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小澤得二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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