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山本 禮三郎(-礼三郎、やまもと れいざぶろう、1902年9月15日 - 1964年9月11日〔『CD 人物レファレンス事典 日本編』、日外アソシエーツ、2002年。〕〔山本礼三郎 、日本人名大辞典、講談社、コトバンク、2009年11月11日閲覧。〕〔『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.164。〕)は、日本の俳優である。本名は山本 博吉(やまもと ひろよし)、初期芸名は小沢 美羅二(おざわ みらじ)〔、東亜キネマ時代に一時期市川 壽三郎(-寿三郎、いちかわ じゅさぶろう)を名乗った〔。マキノ大量退社事件で退社し、山本礼三郎プロダクションを設立した時期がある。 == 来歴 == 1902年(明治35年)9月15日、東京府東京市芝区白金志田町(現在の東京都港区白金1丁目 - 高輪1丁目)に「山本博吉」として生まれる〔。父は明治時代の洋画家・山本芳翠〔山本芳翠 、朝日日本歴史人物事典、朝日新聞出版、コトバンク、2009年11月11日閲覧。〕で、博吉は次男である〔。満4歳のときに父が死去した〔。 1918年(大正7年)、旧制中学校を中途退学する〔。同年4月、満15歳のときに、獏与太平こと古海卓二、西本政春、河合澄子らの結成した「日本バンドマン一座」に参加、「小沢美羅二」を名乗り、浅草公園六区での創作オペラを経験する〔『日本映画監督全集』、キネマ旬報社、1976年、p.350-362(「古海卓二」の項、執筆竹中労)。〕。のちに古海の妻紅沢葉子が横浜市山下町(現在の同市中区元町一丁目)の大正活動映画(大活)に入社すると、古海たちとともに横浜に移る。満19歳を迎える1921年(大正10年)、大活が製作、栗原トーマス・中尾鉄郎が共同監督したサイレント映画『紅草紙』に出演、映画界にデビューした〔。 1927年(昭和2年)、25歳のときにマキノ・プロダクション御室撮影所に入社、「山本禮三郎」の名で、同年、曽根純三監督の『鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子』で本格デビュー、マキノ省三こと牧野省三御大が監督した『百万両秘聞』等に出演したが、翌1928年(昭和3年)、マキノ省三監督の『忠魂義烈 実録忠臣蔵』出演後に、片岡千恵蔵、嵐長三郎、山口俊雄、中根龍太郎、市川小文治、武井龍三、マキノ梅太郎らがともに退社し、長三郎、梅太郎は牧野省三からもらった名を返上し、嵐寛寿郎、尾上梅太郎と名乗り、それぞれがスタープロダクションを設立するという事件が起きる。このとき山本も退社し、「山本礼三郎プロダクション」を設立、高見定衛を監督に『蒼白の剣士』を製作、主演した。 山本は同年中に東京に移り、河合プロダクション(のちの河合映画製作社)に入社する。入社第1作は、高見定衛監督による山本の主演作『刺客』で、同年、曾根純三監督の『近藤勇』にも主演した。1930年(昭和5年)、京都に戻り、等持院の東亜キネマ京都撮影所に移籍、「市川壽三郎」を名乗ったが、同年中に日活太秦撮影所に移籍、芸名を「山本禮三郎」に戻した。 1935年(昭和10年)、現代劇に転向〔、翌1936年(昭和11年)、内田吐夢監督の『人生劇場』に吉良常役で出演、当たり役となる〔。日活の製作部門が他社と統合されて大映となる前年の1941年(昭和16年)、東宝映画東京撮影所(のちの東宝スタジオ)に移籍する。 第二次世界大戦中も映画出演をつづけ、マキノ正博監督の『ハナ子さん』を最後に京都に戻った。戦後は、1948年(昭和23年)に黒澤明監督の『醉いどれ天使』、『野良犬』に出演しとほか、大映京都撮影所を中心に活動する。 1964年(昭和39年)9月11日、死去。満61歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山本礼三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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