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小墾田宮(おはりだのみや)は飛鳥時代の推古朝および奈良時代の淳仁朝・称徳朝の宮殿。「小治田宮」とも書く。近年の発掘調査から、奈良県明日香村の雷丘周辺にあった可能性が高くなっている。 == 推古朝の小墾田宮 == 日本書紀によると603年(推古11年)、豊浦宮(とゆらのみや)で即位した推古女帝は新宮として小墾田宮を造営しここに居を移したという。国家権力の中心地として築造し、遷宮したと考えられる。 その後女帝が崩御するまでの間に、蘇我氏、聖徳太子らを中心として、冠位十二階の制定、十七条憲法の制定、遣隋使派遣などの重要施策がこの宮で行われた。日本書紀の記述からこの宮の構造は、南に「南門」を構えその北に諸大夫の勤する「庁」が並ぶ「朝庭」が広がり、そのさらに北の大門を入ると女帝の住まう「大殿」が営まれていたことが推定される。これは後代の宮城において、朝堂院と大極殿および内裏に発展するものの原型と思われる。 小墾田宮の所在地については奈良県高市郡明日香村豊浦(とようら)に「古宮」という小字名があることから、以前より有力地とされていた。1970年(昭和45年)に第1次調査、1973年(昭和48年)に第2次調査が行われた。その発掘調査では宮殿跡は見つからなかったが、7世紀初頭の掘立柱建物群、庭園・大溝などの遺構が見つかった。その後、淳仁・称徳朝の小治田宮が発見され(後述)、さらに1986年(昭和61年)6月に雷丘(いかずちのおか)南麓の雷内畑(いかづちうちばた)遺跡で、6世紀末から7世紀初めの苑池と石敷の一部分が発見〔飛鳥遺跡地図 〕され、これが推古朝の小墾田宮の比定候補地として注目されるようになり、この遺跡を「小墾田宮推定地」と呼ぶことが少なくない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小墾田宮」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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