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小泉 博(こいずみ ひろし、1926年8月12日 - 2015年5月31日〔俳優の小泉博さん死去 映画「サザエさん」でマスオ役 より〕)は日本の俳優、司会者。本名は小泉 汪(読み同じ)。身長173cm、体重72kg、血液型はA型。趣味はゴルフ。 == 来歴 == 神奈川県鎌倉市に政治家小泉策太郎の八男として生まれる。兄は日本画家の小泉淳作〔インタビュー小泉淳作氏 より〕。 11歳で父と死別。慶應義塾高等学校を経て1943年、慶應義塾大学経済学部に入学。1948年に卒業、NHK第20期アナウンサーとして入局。この進路選択については、「日本を農業と軽工業の国に変革させる、という当時のアメリカGHQの発表に対する不安感があった」とコメントしている〔『愛の戦士レインボーマン』DVDでのコメンタリより〕。 NHK入局後、大分放送局に配属される。1950年9月、休暇で上京した際に、軽い気持ちで藤本眞澄が代表を務める藤本プロの『えり子とともに』(公開は1951年)のフレッシュマン募集に応募し、三人の合格者の一人に選ばれる。これを受けNHKを退職し、同映画に出演する。その後、東宝に復帰した藤本真澄から誘われて、東宝ニューフェイス第3期生に応募し、合格。同期には山本廉、岡田茉莉子がいた。1951年6月、東宝に入社して、翌1952年1月、『青春会議』で主演スターとして売り出す。 都会的な明るい持ち味の二枚目ぶりが人気を呼び、特に1956年から1960年にかけての江利チエミ主演の『サザエさん』シリーズでのマスオ役が有名である。また1955年の『ゴジラの逆襲』、1961年の『モスラ』をはじめ、初期の東宝特撮映画では共演した佐原健二、平田昭彦、土屋嘉男などと並び、欠かせない顔だった。1967年に出演した『日本のいちばん長い日』において、NHKアナウンサー時代の先輩である和田信賢役を演じたこともある。戦時中は飛行機乗りへの憧れが強く、『ゴジラの逆襲』で飛行士役を演じた際は夢が叶った思いだったという〔『モスラ』DVDコメンタリーより〕。 1961年以降は次第にテレビへと活躍の場を移し、1970年にはフジテレビ『クイズ・グランプリ』の司会を務めた。当時はアナウンサー経験者とあって、巧みな話術を生かした名司会で人気があった。 その後はレストラン「チェック」を経営し、1990年代の後半からはフランキー堺の後押しなどもあり、「日本俳優連合」で、俳優の契約改善要求の取り纏め役に従事。『徹子の部屋』で、「そっちが忙しすぎて、俳優の仕事があまりできないんですよ」とコメントしていた。 2003年の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』で俳優業に復帰。『モスラ』(1961年)と同じ中條役としての登場で、久々のゴジラ映画出演となった。また同時期にもテレビ『超星神グランセイザー』に中条という名の役で出演した。 2015年5月31日午前2時20分、間質性肺炎のため死去。88歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小泉博」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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