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小沢 圭次郎(おざわ けいじろう、天保13年4月2日(1842年5月11日) - 昭和7年(1932年)1月12日)は、日本の造園家、作庭家、教育者、文筆家、元桑名藩士。近代初の造園研究者。酔園と号した。 == 人物 == 1842年(天保13年)、桑名藩医官小沢長庵の次男として江戸築地の桑名藩下屋敷で生誕。 1855年(安政2年)医師長崎升斎門下。漢学を幕末の儒者・芳野金陵に学ぶ。1862年(文久2年)、長崎に遊学。長崎奉行高橋州作の侍医となるが帰ってからは蘭学者緒方洪斎の門に、続いて箕作秋坪の門入った。明治元年、藩より英学修業を命じられる。一時は家業の医師を志したが、1870年(明治3年)上京し、海軍兵学校教官となる。しかし翌年退職し、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)教官および校長心得を歴任。 明治19年教職を辞す。それ以来数十年にわたってひたすら日本造園史の研究にはげみ、晩年まで園林叢書を編纂。その他、明治23年から38年にかけて「国華」に連載した「園苑源流考」は完成に至らず。 この概要をまとめたものを1912年(明治45年)、建築工芸雑誌に「庭園源流略考」1巻から8巻までとして、また同年に「後楽園源流略記」と「大名の庭」を掲載。また1915年(大正4年)、日本園芸研究会「明治園芸史」第十編に「明治庭園記」を掲載。造園関連の収集資料は膨大で、それらは国立国会図書館に所蔵してある。 70歳になって、東京府立園芸学校において造園史を講じていた。膨大な園林叢書の編纂は、完成をみないで昭和7年、91歳で死去。蒐集した「園林叢書」も、国立国会図書館に保存されているが、これらは日本庭園史研究に大いに寄与している。 「明治園芸史」に収められた「明治庭園記」は幕末から大正初期にいたる皇室から各地の大名、政治家や豪商、社寺所有の庭園群の沿革や現況が記され、多くの写真、図面が掲載され、また公園の往時の数が詳細に記録され、往時の庭園状況を知ることができるため、きわめて貴重な文献とされている。 なお設計を「設景」とあらわしている。 もともと作庭記の作者を橘俊綱と示唆したのは小沢で、その他謎の人物増円の著書『山水並野形図』を明治26年に紹介している。 幾多の名士の庭つくりを手がけたほかに各地の公園の新設改良打も業績多く、公共苑地計画にのこした業績も大きい。代表作には、伊勢神宮内苑及外苑の築造と改修(明治21年、改修大正4年)、堺市・大浜公園(明治39年)、三重・九華公園(昭和3年)奈良公園の改良案(明治26年)、日比谷公園新設計画への参画(自身の日本庭園は実現せず)、麻布・三条公爵邸庭園、庭園代表作は、天王寺公園内日本庭園、別府市別府公園、栗林公園改修、ロンドン郊外における日英同盟記念博覧会日本風林泉の設計(明治35年)等がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小沢圭次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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