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古稀庵(こきあん)は、1907年(明治40年)に、神奈川県足柄下郡大窪村(現:神奈川県小田原市板橋)に建てられた、政治家・山縣有朋の別荘である。 == 概要 == 神奈川県足柄下郡大窪村板橋の、南向きの傾斜地に立地。総面積約11,630平方メートルの中に、和風木造平屋建の本館、伊東忠太設計の木造二階建の洋館、ジョサイア・コンドル設計のレンガ造平屋建の洋館等の建物と、入口に茅葺屋根の門、面積約4,600平方メートルの庭園により構成されていたとされる。 特に庭園については、庭園好きの山縣がその築造に心血を注ぎ、日本古来の「山水回遊式庭園」の形式をあえて採らず、作風の主題を「自然」、とりわけ「水流」に求めた「自然主義的庭園」の形式を京都別邸・無鄰菴に続いて採ったとされる。その庭園は、高低差14.9mの間に上段の庭、中段の庭、下段の庭等といった形で構成され、その高低差を巧みに利用した流水や、洗頭瀑、聴潭泉といった滝を配したことが特徴として挙げられる。同じく山縣の所有であった東京・目白の椿山荘や、京都の無鄰菴と共に、近代日本庭園の傑作とするもある。 古稀庵滞在中の山縣は、健康の時には朝夕必ず杖を付いて庭園内を散歩していたが、1914年(大正3年)になると、庭園内に「槇ヶ岡神社」という、明治天皇の神霊を祀った神社を造り、雨の日も風の日もそこに参拝することを日課としていた。 庭園にはこの他、小田原の在郷軍人によって植えられた「軍人松」と、地元の人々が曳いて来て据え付けてくれた「兜岩」と呼ばれる、兜の形をした大石があり、山縣がこのことについて地元・板橋村(1889年(明治22年)に大窪村となる前のこの地の村名)の人々に感謝の意を表して詠んだ歌が庭園内の記念碑に残っている。また、古稀庵への来客と庭について座談するとき、山縣は必ずこれらを自慢したという。 庭園内にある滝についても、山縣は来客に自慢していたが、横浜から原富太郎が訪れたときには、原から「この滝には三渓園の滝に比べて、滝の流れの響きに生命が感じられない。」と評され、それを聞いて相当口惜しがったといわれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「古稀庵 (小田原市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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