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小田氏の乱 : ミニ英和和英辞書
小田氏の乱[おだしのらん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [うじ]
 【名詞】 1. family name 2. lineage 3. birth 

小田氏の乱 : ウィキペディア日本語版
小田氏の乱[おだしのらん]
小田氏の乱は、至徳4年/元中4年(1387年)に発生した鎌倉府常陸国小田氏との間の戦い。
== 概要 ==

=== 前史 ===
小田氏は八田知家を祖として、鎌倉時代には常陸国の守護を務めて筑波郡南郡などを支配するほどの家柄であったが、北条氏得宗家によって守護職や本拠であった信太荘を奪われて、小田城周辺を支配する小領主に没落していた。
そのため、小田治久後醍醐天皇討幕に呼応して北条氏打倒に参加した。しかし、旧領の多くは足利氏の所領となってしまった。そのため、足利尊氏が天皇の建武政権と対立すると、常陸国内では数少ない南朝方となり、東国進出を図る北畠親房を迎え入れた(親房が小田氏の下にあるときに『神皇正統記』を著している)。
だが、北朝方に攻められて暦応4年/興国2年(1341年)に治久が北朝側に降伏すると、一転して治久・孝朝親子は足利氏及び北朝に密着する戦略を取った。治久親子は同族の復庵宗己(治久の猶子)や中条長秀を介して足利尊氏に接近し、特に孝朝は和歌剣術に優れて、尊氏の信任を得ることに成功した。文和元年/正平7年(1352年)、治久の死によって孝朝が家督を継承した。孝朝は足利氏の要請に応じて軍事活動に積極的に参加し、その功労によって信太荘の一部など旧領の一部を回復していった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小田氏の乱」の詳細全文を読む




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