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小田 義人(おだ よしと、1947年5月22日 - )は、静岡県静岡市〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、130ページ〕出身の元プロ野球選手(内野手)。 == 来歴・人物 == 進学校の静岡高校では、1963年の夏の甲子園に一年生で出場、2回戦で銚子商に敗退。1965年春の甲子園では準々決勝で平松政次率いる岡山東商に敗れた〔。同期に服部敏和、佐藤竹秀がいる。同年のドラフト会議では阪急から6位指名を受けたが拒否して早稲田大学に進学した〔。 東京六大学リーグでは1968年秋季リーグで優勝、一塁手としてベストナインに選ばれた。このときのベストナインは三塁手は富田勝(法政)、遊撃手は荒川尭(早稲田)、外野手は山本浩二(法政)、谷沢健一(早稲田)と後にプロ入りする選手が多く選ばれている。リーグ通算75試合出場、294打数73安打、5本塁打、35打点、打率.248。 大学卒業後の1970年、大昭和製紙に入社し、1971年の産業対抗で優勝、最優秀選手に選ばれる。1972年の都市対抗では日本楽器に補強され、チームの中心打者として初優勝に貢献。同年の第20回アマチュア野球世界選手権日本代表となる。社会人ベストナインにも二度選出された。 1972年のドラフト2位指名を受けヤクルトに入団〔。新人ながら一塁手のレギュラーを任されるが打撃成績は低迷、1974年シーズンオフに大杉勝男との交換トレードで内田順三とともに日本ハムに移籍した〔。移籍一年目の1975年は開幕から好調を維持し、4月後半には四番打者に定着。白仁天(太平洋)と首位打者を争うも、白の.3193に対し小田は.3187と僅差で首位打者のタイトルを逃した〔。この年には自己最多の16本塁打を記録している。長打力はあまりないが、しぶとい打撃で打点を稼ぎ、中心打者として活躍した。1977年シーズンオフ、柏原純一との交換トレードで杉田久雄とともに南海に移籍〔、南海でも一年目はレギュラーとして102試合に出場するが、その後は片平晋作にポジションを譲る。1981年シーズンオフに南海を自由契約になり近鉄に移籍し1983年限りで現役を引退した〔。 極度の近視で眼鏡がトレードマークだった。 引退後、1984年から1990年には近鉄のスカウトを務め、静岡高校の後輩である赤堀元之を見出だした。1991年から1993年には古巣・ヤクルトの二軍打撃コーチ、1994年には二軍育成コーチを務めた。1995年からはヤクルトのスカウトとなり、現在はスカウト部長を務める〔。ヤクルトのスカウトになってからも、早稲田の後輩である青木宣親や武内晋一の入団に尽力している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小田義人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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