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小笠原 秀清(おがさわら ひできよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・故実家。室町幕府幕臣・細川氏(後の肥後藩主家)家臣。一般には小笠原少斎〔 勝斎、松斎などの表記も見られる。〕の名で、細川ガラシャを介錯した人物として知られる。 == 生涯 == === 関ヶ原の戦い以前 === 16世紀中期、小笠原稙盛(稙清)の子として出生。生家の京都小笠原氏は、室町時代初期に小笠原宗家(信濃小笠原氏)から分かれ、代々京都で奉公衆として室町幕府に仕えていた。父の稙盛は足利義輝の近習であったが、永禄8年(1565年)5月19日の永禄の変で義輝と共に討死した。秀清は変の後に浪人となった〔木下昌規によれば、父・稙盛が「令一味御敵」を理由に所領の没収を命じられた永禄12年5月7日付の幕府奉行人連署奉書が残されており、稙盛・秀清父子は永禄の変後に三好三人衆によって擁立された足利義栄に仕えたため、後に足利義昭が将軍になると処分を受けたと推測されしている(木下昌規「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」(初出:天野忠幸 他編『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年/所収:木下『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2))。〕が、後年丹後国で細川藤孝の客分となり〔細川氏の丹後支配は天正8年(1580年)以降。〕、500石を給された。後に剃髪して少斎と号したが、その時期は藤孝と同時の天正10年(1582年)〔「ありのままの熊本アーカイブス」(外部リンク参照)〕とも、慶長元年(1596年)〔参考文献「肥後細川藩侍帳」の小笠原七郎の項。〕ともいう。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小笠原秀清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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