|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 笠 : [かさ] 【名詞】 1. (bamboo) hat 2. shade ・ 原 : [はら, もと] 1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
小笠原 貞慶(おがさわら さだよし)は戦国時代の武将。信濃守護・小笠原長時の三男。小笠原流弓馬術礼法宗家。 == 生涯 == 父・長時の時代に甲斐の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、長時は小県郡の村上義清らと共に武田氏に対抗するが、天文17年(1548年)の塩尻峠の戦いにおいて敗退する。『小笠原系譜』『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』など近世期の系譜史料に拠れば、長時親子は信濃没落後に上杉氏を頼り越後へ逃れた後、伊勢を経て京へ逃れ、同族の京都小笠原氏や三好氏を頼ったという。 京において長時親子は信濃復帰を望み運動しており、永禄4年(1561年)に貞虎(貞慶)は長時とともに本山寺(大阪府高槻市)に対し旧領復帰の際には寺領寄進を約束している(永禄4年閏3月付小笠原貞虎(貞慶)書状「本山寺文書」)。なお、本山寺文書に拠れば貞慶は諱を「貞虎」から「貞慶」に改名しており、「虎」字は越後亡命時代に貞慶は元服し長尾景虎(上杉謙信)から偏諱を拝領し、京で三好長慶から「慶」字を拝領した「貞慶」に改名した可能性が考えられている〔平山(2011)、pp.43-44〕。本山寺に対して祈願文書が発給された永禄4年には上杉氏と武田氏の間で川中島の戦いが行われているが、永禄4年の第四次合戦を契機に北信を巡る争いは収束し、長時親子も旧領回復には至っていない。 長時は長慶の死後、越後の上杉謙信のもとへ再び寄寓した後、会津蘆名氏のもとに寄寓し、天正7年(1579年)会津を訪れた貞慶に家督を相続させた(『笠系大成』)。一方の貞慶は京に残り、将軍足利義昭に仕えた。しかし織田信長が義昭を追放すると、天正3年から同9年ごろにかけて、信長の使者として東国諸大名への対武田・対上杉・対後北条交渉を担当し、信濃筑摩郡に所領を約束された。天正10年(1582年)の甲州征伐では深志城を落城させた織田長益に拝謁したが〔平山(2011)、pp.51〕、小笠原旧領は木曾義昌に安堵されたため、その回復は実現しなかった。同年6月の本能寺の変で信長が横死した後の天正壬午の乱において旧領回復を狙い徳川家康の家臣となる。 北信ではこの頃、伯父の洞雪斎が上杉景勝の後援を受けて木曾氏を追放し深志城を押さえていたが、小笠原旧臣は上杉氏の傀儡であった洞雪斎から離れていたと言われ、貞慶は徳川氏や小笠原旧臣の支援を得て深志城を奪還する。これにより大名として復帰を果たした。その際、長男の小笠原秀政を人質として差し出し、家康の宿老であった石川数正に預けられた。天正11年(1583年)には筑摩郡北部の青柳城、麻績城を上杉氏と争い、翌12年(1584年)には木曾義昌の本領木曽福島城を攻めた。 天正13年(1585年)、突如として数正が人質の秀政を引き連れて豊臣秀吉の元へ出奔すると、貞慶もそれに従って豊臣氏の家臣となった。ただし、その前から貞慶が真田昌幸とともに秀吉と内通していた形跡があり、貞慶の秀吉への内通発覚によってその責任を問われたことが数正出奔の一因になったとする説もある〔柴裕之「石川康輝(数正)出奔の政治背景」『戦国史研究会』60号(2010年)/所収:柴『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-884-4〕。天正18年(1590年)、小田原征伐で前田利家軍に従って軍功を挙げたため、秀吉から讃岐半国を与えられた。しかし、かつて秀吉の怒りに触れて追放された尾藤知宣を保護したため、秀吉の怒りを買って改易された。 その後は子の秀政とともに再び家康の家臣となり、下総古河に3万石を与えられた。文禄4年(1595年)死去。享年50。茨城県古河市の隆岩寺に供養塔がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小笠原貞慶」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|