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小笠原 長旌(おがさわら ながはた)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。石見小笠原氏第15代当主。 == 生涯 == 永禄12年(1569年)の尼子勝久の蜂起に対し先陣を務め、元亀元年(1570年)に父・長雄が死去し家督を継ぐ。 長旌は病弱であり、実子が居なかったことから、小笠原氏の重臣・小笠原長治は吉川氏から養子を迎えようと画策。当初は吉川元春の四男である吉川松寿丸を長旌の養子に迎えたいと要請したが、間もなく松寿丸が早世したために、次いで天正7年(1579年)には元春の三男・吉川経言を養子に迎えることを要請。天正9年(1581年)小笠原氏と吉川氏の間で養子縁組の合意がなされたが、残るは毛利輝元の承認を受けるだけという段階に至って、輝元が激しく反対したため、この養子縁組は取り止められることとなった。 吉川家との養子縁組が破談となって以降も長らく長旌に男子が生まれず、病で在広島の勤めが出来なかったため、長旌の娘と、長旌の弟・元枝の子である長親とを婚姻させ、長親を小笠原氏の後継とし、元枝をその後見とした。その際に、これ以後に長旌に実子が生まれた場合はその実子を後継とすると定めており、天正19年(1591年)に長旌に実子である千代童丸が生まれると、千代童丸が後継となった。しかし、千代童丸は翌年に早世したため、再び長親を後継、元枝を後見として家政を宰領させることとなる。 長旌時代の小笠原氏領は、河本や三原を中心に江の川北岸に広がり、邑智・迩摩・安濃・那賀の四郡に渡って、約1万7,000石に及んでいたが、天正20年(1592年)に毛利輝元より、出雲国神門郡神西へと転封され、石見国を離れることとなる。この際、小笠原氏は出雲について行きたいと願い出た多くの家臣を石見に残し、主だった親族とさしあたり必要な家臣を伴って神西へと移ったため、残された小笠原氏一族と家臣等の多くは帰農することとなった。 「丸山伝記」や、神西の大就寺にある碑文によれば文禄4年(1595年)に、「孫左文書」によれば慶長8年(1603年)に長旌は死去したとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小笠原長旌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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