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小笠原 長経(おがさわら ながつね)は、鎌倉時代前期の信濃国の武将。鎌倉幕府御家人。小笠原長清の子。 == 生涯 == 二代将軍源頼家の近習として仕え、蹴鞠の相手や流鏑馬の射手を務めている。正治元年(1199年)4月、頼家が十三人の合議制に反発して指名した目通りが許される5人の近習にも選ばれている。同年8月、頼家が安達景盛の愛妾を奪ったことで両者が対立すると、頼家の命を受けて安達邸を包囲したが、北条政子に制止されている(『吾妻鏡』)。 建仁3年(1203年)9月、比企能員の変では、比企氏方として拘禁された。その後鎌倉を引き払ったと見られ、鎌倉では弟の伴野時長が小笠原氏の嫡家として重用されている。 承久3年(1221年)、承久の乱で父長清は鎌倉方の大将軍として子息8人と共に京へ攻め上り、京都軍と戦った。乱後の貞応2年(1223年)、長経は父の跡を継いで阿波国の守護となっており、5月27日、土御門上皇の土佐国から阿波国への還御にあたって、対応を命じられている。 出家して小笠原入道と称され、宝治元年(1247年)5月9日、京都の新日吉社で行われた流鏑馬の神事を務めている(『葉黄記』)。 宝治元年(1247年)11月5日、69歳で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小笠原長経」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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