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小篠綾子 : ミニ英和和英辞書
小篠綾子[こしの あやこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あや]
 【名詞】 1. (1) figure 2. design 3. (2) twill weave 4. pattern of diagonal stripes
綾子 : [りんず]
 (n) figured satin
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

小篠綾子 : ウィキペディア日本語版
小篠綾子[こしの あやこ]

小篠 綾子(こしの あやこ、1913年(大正2年)6月15日 - 2006年(平成18年)3月26日)は、日本ファッションデザイナーである。同じくファッションデザイナーとなったコシノ三姉妹(コシノヒロココシノジュンココシノミチコ)の母親としても知られる。
== 経歴 ==
1913年(大正2年)に呉服屋小篠甚一小篠ハナの長女として兵庫県加西郡西在田村若井(現在の加西市若井町/父の実家)に生まれる。元々の姓は、小篠(オザサ)であった。一生に関わる仕事に就けるように、食べ物に不自由しないように糸に麦をつけて綾子と名付けられた。3歳になる頃、大阪府泉南郡岸和田町(現在の岸和田市)に移る。大阪府立岸和田高等女学校(現在の大阪府立和泉高等学校)を中退後、パッチ店、紳士服店、生地店で洋裁の修業を積み、特に紳士服店の修業時に女性ダンサーのドレス製作のため、独自に立体裁断〔日本で本格的に立体裁断が普及したのは、1955年に小池千枝がフランスから立体裁断用の人台を輸入したのがきっかけだが、小篠は小池の影響を受けていない。〕を手がけ始めた。
1934年(昭和9年)、岸和田市でミシン一台だけでコシノ洋装店を開業した。昼は仕事を探して町中を御用聞きに回り、縫う物があれば何でも引き受け、夜を徹して仕事に励んだ。
1934年(昭和9年)11月に紳士服のテーラーだった川崎武一と結婚して、1937年(昭和12年)に長女のヒロコ(弘子)が、1939年(昭和14年)には次女のジュンコ(順子)が誕生した。二度の出産でも当日まで仕事を続け、子供が産まれてもミシンが止まることだけはなかった。
1942年(昭和17年)、3人目の子供のミチコ(美智子)を身ごもった時、夫が太平洋戦争に召集されて、1945年(昭和20年)に中支方面で戦病死する。
戦後も、岸和田で洋装店を経営しつつ、後に世界的なデザイナーとして活躍する娘3人を女手一つで育てた。
洋装店経営の傍ら、1982年(昭和57年)に、次女・ジュンコがゲスト出演した「三枝の愛ラブ!爆笑クリニック」に飛び入りで出演〔コシノジュンコ著「人生これからや!」P.122-124。著書では番組名が「三枝の爆笑夫妻」となっており、日本テレビ三枝の爆笑夫婦」の誤記とも考えられるが、「大阪のテレビ局の収録」とも書いてあることから、同じ桂三枝(当時)司会番組である関西テレビ「三枝の愛ラブ!爆笑クリニック」の誤記と思われる。〕したのをきっかけに、60歳を超えてから、テレビのトーク番組へ数多くゲスト出演し、娘達のショー、講演会、自らが主宰する「ザ・Uの会」等の会合で日本全国や世界各地を飛び回った。
1988年(昭和63年)には、74歳で「アヤコ・コシノ」ブランドを創設し、2006年(平成18年)に脳梗塞のため逝去するまで、現役デザイナーとして活躍した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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