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小西 喜蔵(こにし きぞう、1908年7月17日 - 1989年7月28日)は、日本の騎手(新潟競馬倶楽部、東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、調教師。(国営競馬、日本中央競馬会)。岩手県岩手郡米内村上田(現在の盛岡市高松)出身。日本競馬史上初のクラシック三冠達成騎手。仁王小学校卒業、盛岡高等小学校(現・下橋中学校)卒業。帝京大学元教授の小西厚子は娘。 == 経歴 == === 騎手時代 === 1908年7月17日、岩手県岩手郡米内村の農家に11人兄弟の次男として生まれた。1923年に高等小学校を卒業した後岩手種馬所の牧夫になった小西は、種馬所に近い小岩井農場に繋養されていたサラブレッドを目にするうちにその美しさに魅せられ、騎手を志すようになった。1926年、小西は岩手種馬所を退職し、かねてから面識のあった新潟競馬場の調教師田中和吉に弟子入りした。 弟子入りしてまもなく田中が死去した。1929年4月に田中の弟・和一郎が目黒競馬場に厩舎を開業すると小西はその弟子となり、同年秋に騎手としてデビューした。デビュー当初の小西は障害競走で活躍を見せた。代表的な騎乗馬はハナフブキ(1939年の中山大障害(春)優勝馬コクオーの半兄)で、小西とハナフブキのコンビは6勝を挙げた。小西がハナフブキに騎乗して障害を飛越しているところを撮影した写真がポスターになったこともある。平地競走においても堅実な成績を収めていたが、厩舎の先輩騎手には野平省三や田村仁三郎がおり、師である田中和一郎自身も騎手を務めた(この時代の調教師は騎手を兼ねることができた)ため、活躍の場はなかなか巡ってこなかった。そんな中、1936年にはツキヤスに騎乗して目黒記念(秋)を優勝。重賞初制覇を果たしている。 1937年に田中が調教師に専念するようになって以降は、東京優駿(大)競走に毎年出場するなど小西の活躍の場は増えていった。1939年、カブトヤマ・ガヴアナーの全弟にあたるロツキーモアーに騎乗して帝室御賞典(秋)優勝を果たした。 1941年春、小西は3歳の牡馬セントライトとコンビを組むことになった。デビュー当時小西のセントライトに対する評価はあまり高くはなかったが、セントライトは7番人気で迎えたデビュー戦を優勝すると続く横浜農林省賞典四歳呼馬も優勝して小西を驚かせた。東京優駿競走では小西が「苦心したところがない」と振り返るレースぶりで2着馬に8馬身の差をつけて優勝。クラシック三冠のうち二冠を制覇した。小西とセントライトのコンビは10月の京都農林省賞典四歳呼馬も優勝し、それぞれ史上初のクラシック三冠達成騎手、クラシック三冠馬となった。なお、小西はクラシック三冠競走において2700円の進上金を獲得したが、償還期間が10年の国債で支払われたため、太平洋戦争終結とともに紙屑と化した。 翌1942年、小西はセントライトの半弟・アルバイト(後にクリヒカリに改名)に騎乗して横浜農林省賞典四歳呼馬を優勝。1943年には同馬に騎乗して帝室御賞典(秋)を優勝した。 太平洋戦争が激化すると小西は家族を故郷の米内村に疎開させ、自身は近くの滝沢村巣子にあった日本競馬会東北支所で能力検定競走に携わった。太平洋戦争終戦後の1946年10月17日に競馬が再開されると小西は騎手として復帰し、東京競馬場の第1競走で優勝。再開後初の競走での優勝騎手となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小西喜蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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