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小西綾(こにし あや、1904年9月7日-2003年11月3日)は、実践的な女性解放運動家。 各地を講演し多くのファンを持った。全ての女たちへというエールを送り続けた。女性は差別されて当然、選挙権も人権もなく、もちろんセクハラという言葉もなかった困難な時代の中で、自立と自由を素手でつかみとり、戦前には同僚の女性を守る闘いをした。 戦後は組織に頼らない語り部として、さらに70歳を超えてウーマンリブ世代と交流を持ち、新しい活動を始めた。、「どうしたら女性がより人間らしく、幸せに生きられるか」を話し続け、若い世代に橋を架けようとした。 。 == 年表 == *1904年 9月7日 大阪に生まれる〔ジョジョ企画『女たちの20世紀・100人 ―姉妹たちよ』(集英社、1999年)〕 *1919年 父死去 *1920年 姉死去。女学校を中退。弟妹を養うため母とともに鐘紡で事務職として働く *1925年 同僚の女性のために闘い、炊事場へ左遷される。このとき社会の男女差別について自覚する。 *1928年 収入を得るため、勤めを続けながら喫茶・麻雀店を開店 *1930年 ストライキの首謀者として鐘紡を解雇される。新築地劇団の関西後援会を結成 *1932年 結婚 *1934年 長男誕生 *1936年 離婚。弟妹が就職したので、自分の勉強をしようと喫茶店を売却。新築地劇団のマネージャーになる *1940年 新劇までが弾圧の対象となり、劇団員とともに検挙され25日間拘留される。軍需工場(鉄工所)、製薬会社で働く *1945年 敗戦。『よっしゃ、これからは婦人の解放や』と決意。41歳。 *1946年 総選挙で婦人議員擁立のため大阪で活動 *1947年 「関西自由懇話会」を始める *1948年 「関西婦人民主クラブ支部」を結成 *1949年 「近代女性講座」を始める *1951年 婦人民主クラブに呼ばれて上京、書記長になる。47歳。 *1952年 駒尺喜美(27歳)と低所得者住居「大塚女子アパート」で同居始める *1953年 婦人民主クラブを分裂問題で辞める。婦人解放運動家として個人で活動を開始 *1955年 広島で「母と女教師の会」、農村や働く女性の集まりで話す活動を始める。広島で女性グループ「銀河の集い」を結成。「市民大学講座」など広島との付き合いは断続的に1960年代まで続く。 *1959年 母死去 *1966年 駒尺喜美と文京区駒込へ転居 *1969年 国立市市民講座「新聞を読む会」を始める(1979年まで) *1976年 第2回「魔女コンサート」に参加、講演。年齢を超えて、ウーマンリブの若い世代とつながった。72歳。 *1977年 駒尺喜美と新宿区神楽坂に「56番館」(女性の集まりのために開放した自宅の一室の呼称)を開く。前年に引き続き、第3回「魔女コンサート」に参加 *1978年 新聞を読んで考える会「でんぐりがえ史」を始める(1980年まで)。中高年のための「ディスコぱーてぃどん」も始める *1979年 「魔女の審判」を駒尺喜美と共著で出版 *1980年 女の展覧会「花ふぶき」に参加、講演。若い世代との交流を深め、男女差別の実態を解明していく *1981年 56番館にてウーマンリブ世代と週1回、夕食を囲みながら「あっ、わかったの会」を始める(1991年まで) *1984年 「ザ・ショー 女のルネッサンス」に主催者の一員として参加、講演。 *1985年 前年に引き続き「女のルネッサンスPartII 2020年発不思議の旅」に同様に参加、講演。 *1987年 講演集「女、あんたが主人公―小西綾 おおいに語る―」を出版 *1990年 アメリカへ。シニアライフを視察 *1991年 駒尺喜美と大阪へ転居、「わかったぷらんにんぐ」を設立、「ウーマンズスクール」を開校、校長になる。87歳。 *2001年 「わかったぷらんにんぐ」「ウーマンズスクール」閉じる *2003年 春、駒尺喜美が提唱したシニアハウス「友だち村」(伊豆市)へ転居。11月3日死去。99歳。駒尺喜美との共同生活は50年に及んだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小西綾」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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