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小見川藩(おみがわはん)は、下総国香取郡に存在した藩。藩庁は小見川の小見川陣屋(現在の千葉県香取市)に置かれた。 == 藩史 == 『家忠日記』を残した松平家忠が文禄3年(1594年)に武蔵国忍藩から移封されたことで、小見川藩が立藩した。家忠は鳥居元忠と共に慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで西軍の挙兵を誘った。石田三成はこの誘いに乗って挙兵し、家忠は元忠らと共に伏見城で戦死した。死後、家督は子の松平忠利が継ぎ、翌年2月に三河国深溝藩に移封された。翌年12月28日、土井利勝が1万石で入ったが、慶長15年(1610年)2月に下総国佐倉藩3万2400石に加増移封された。慶長17年(1612年)、安藤重信が1万6000石で入部した。重信は元和元年(1615年)に2万石の加増を受け、元和5年(1619年)10月にもさらに2万石加増の上で上野国高崎藩に加増移封となった。この後、小見川藩は廃藩となり、その所領は土井利勝の佐倉藩領として組み込まれた。寛永10年(1633年)4月に利勝が古河藩に移った後、佐倉藩に石川忠総が入部した後も引き続き、佐倉藩領であった。その後、三浦正次領、天領、鹿沼藩領を経た寛永16年(1639年)11月10日、内田正信が8200石加増の上で1万石の大名として諸侯に列したため、ここに小見川藩が再立藩した。ただし、正式に内田氏が再立藩されたのは内田正衆の時代であるとも言われている。 内田氏の藩政においては、用水路の建設や拡張工事などが行なわれた。幕末期の慶応4年(1868年)3月、脱藩藩士による蜂起が起こるなどして藩内は混乱した。最後の藩主・内田正学は明治2年(1868年)の版籍奉還で藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で小見川藩は廃藩となる。その後、小見川県や新治県を経て、千葉県に編入された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小見川藩」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Omigawa Domain 」があります。 スポンサード リンク
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