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小谷三志 : ミニ英和和英辞書
小谷三志[こだに]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
: [こころざし]
 【名詞】 1. will 2. intention 3. motive 

小谷三志 : ウィキペディア日本語版
小谷三志[こだに]
小谷 三志(こだに(こたに) さんし、明和2年12月25日1766年2月4日) - 天保12年9月17日1841年10月31日))は、日本の宗教家、社会教育家。幕末期富士講の一派「不二孝(不二道)」を庶民に広めた。本名は小谷庄兵衛。道号(行名)は祿行三志。鳩ヶ谷出身であることから鳩谷三志などとも呼ばれた。
==略歴==
1766年2月4日(明和2年12月25日)、武蔵国鳩が谷(現・埼玉県川口市)にて、屋「河内屋」を営む小谷太兵衛の長男として生まれた〔江戸時代の鳩ケ谷の偉大な人物『小谷三志』を訪ねて ハト豆ねっと 2013/10 10月号〕。子供たちに手習いを教えたり、宿場の年寄・問屋役を務めながら、鳩ヶ谷で富士講の「丸鳩講」の先達(指導者)となる〔『鳩ヶ谷歴史往来』 平野清、文芸社、2003〕。
富士講は、富士山を信仰対象とする山岳信仰の一種で、17世紀初頭の戦国時代に現れた修験者のひとり、長谷川角行を始祖と謳う人々の集まりである。角行の教えは、中・上層階級に支持された村上光清派と、庶民に支持された食行身禄の2派に分かれ、食行は実践倫理に重きを置き、士農工商それぞれの家業に勤めることが救いとなると説いた。食行の死後、弟子や食行の三女・花が食行派を受け継ぎ、花の弟子であった伊藤参行(1746-1809)に引き継がれた〔世界遺産『富士山-信仰の対象と芸術の源泉』江戸時代に流行した民衆信仰「富士講」と日本人本来の心の領域 岩下哲典、世界遺産アカデミー20号、2013年7月15日〕〔伊藤参行 朝日日本歴史人物事典〕。
1809年文化6年)、富士山水を使った病気治しや護摩焚きといった加持祈祷迷信のたぐいや、白衣の行者姿での登山といった儀式や外形にこだわる富士講諸派に疑問を感じていた三志は、実践道徳を説く参行を江戸で知り門弟となり〔『埼玉県史蹟名勝天然紀念物調査報告 自治資料 第1輯 史蹟之部 古墳墓の部.名勝の部』 埼玉県編 (埼玉県, 1926) 〕、鳩ヶ谷に迎えて師事した〔『四民教諭』とその周辺- 付・既発表論文二編の正誤 大谷正幸、佛教文化学会紀要第13号 2004年(平成16年)11月〕。
三志は参行の教えを発展させ、宗教的形式より、日々の実践道徳の積み重ねや日常処世の応用に重きを置いた。文政天保年間に渡って〔『埼玉県名勝旧蹟案内』 埼玉県, 1930, p15 〕、教えを広めるため諸国各地を回り、多くの人々を感化し、その数は数万とも言われた〔『社会徳育及教化の研究 』中島力造、足立栗園著 (隆文館, 1914) 〕。実践倫理のうちの「孝」を最も重んじたことから〔、1838年(天保9年)には〔小谷三志 朝日日本歴史人物事典〕、「富士講」ではなく、二つとない「不二孝」を行なう「不二道」と称し〔、公認を目指して京都で公家や文人などにも接し〔、仙洞御所九条公より記念品を賜ったとされる〔。
1841年(天保12年)に75歳で没し、鳩ヶ谷浦寺の地蔵院(慈眼寺、川口市鳩ヶ谷桜町5-5-39)に埋葬された〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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