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小谷部 全一郎(おやべ ぜんいちろう、1868年1月17日(慶応3年12月23日) - 1941年(昭和16年)3月12日)は、日本の牧師、教師、アイヌ研究家、また義経=ジンギスカン説と日猶同祖論の提唱者。北海道アイヌ虻田学園創始者、勲六等旭日章を授与。 義経=ジンギスカン説の戦前の著述家である。それ以前にもそれらしいものは存在したが、民衆に浸透させたのは彼が最初であり、『成吉思汗ハ源義経也』は大正末期のベストセラーである。 == 経歴 == 彼の自伝『ジャパニーズ・ロビンソン・クルーソー』によれば、秋田藩の菓子御用商の子としてうまれる。兄弟は不明。戦国時代の武将・白鳥家の子孫だとしている。明治13年(1880年)に上京し漢学・英学・数学を学ぶ。 このころ『義経再興記』という末松謙澄の著書を読んで影響を受けている。原題は『偉大ナ征服者成吉思汗ハ日本ノ英雄義経ト同一人物也』。この本の種本は江戸時代末期、オランダ商館医員のドイツ人医学者シーボルトが著した『日本』である。 この『日本』では、6年の滞在中の日本各地の収集と聞き書きで「大陸渡航説」が展開されており、義経は平泉では死なず、蝦夷に渡り、大陸へ行ったとされている。さらに、日本は神武天皇以来日本諸侯の爵位として“守”(かみ)といい、義経は“かみ”は即“かん”になり、“汗”は鉄木真(テムジン)より、アジアにおいてそれ以前に存在したことはなく、鉄木真(テムジン)の死後初めて蒙古に系譜(系図)が記されているとある。 明治18年(1885年)北海道にわたり、アイヌと出会う。蝦夷地の土着民族であり、いまだ普通の教育を受けていない彼らを支援するジョン・バチェラーという宣教師に感激し、牧師という仕事を目指そうと思ったとされる。 明治21年(1888年)神戸から貨物船のカナダ国籍の帆船でアメリカへ旅立つ。皿洗い、コック、農業労働などを続けて生活費と学費を稼ぎ、1年後ハンプトン実業学校入学(バージニア大学)、翌1890年ハワード大学(ワシントン大学)神学部入学。明治27年(1894年)卒業し、イェール大学(コネティカット)神学部へ学士入学。明治28年(1895年)卒業。神学士。後に国際的な共産主義運動指導者となる片山潜と卒業写真に写っている。 ハワイ布教を経て、明治31年(1898年)に横浜へ帰国。横浜の紅葉坂教会で牧師を勤めていたが、在米中に見聞した先住民教育に感銘を受けていた全一郎はワシントンD.C.にいた星亨駐米大使にアイヌの救済・学校教育の請願を行い、坪井正五郎が宣伝していた北海道旧土人教育会の主唱者の一人となった。北海道にて教育者、牧師になる。虻田学園を創立するが、学童減少や、資金難、有珠山爆発などにより休校となる。アイヌ学者の金田一京助は青年時代北海道虻田の小谷部家を訪れている。 大正8年(1919年)、満州・シベリアに日本陸軍の通訳官として赴任する。チンギス・ハーン=義経の痕跡を調べるべく満州・シベリアを精力的に取材する。大正9年(1920年)帰国。軍功により勲六等旭日章を授与している。陸軍省は小谷部を嘱託として遇したうえに、佐官待遇相当の陸軍大学校教授に招聘しようとした。しかし小谷部はこれを辞退すると、著作活動に専念した。 『成吉思汗ハ源義経也』が大正12年(1923年)完成する。元の題名は『満蒙踏査・義経復興記』。大反響をし、再版10回を越える大ヒットであった。翌年2月『中央史壇』から「成吉思汗は源義経にあらず」と臨時増刊号が組まれ、歴史学・人類学・考古学の各学者反発意見をずらりと並べられ、いっせいに猛反論を受ける。 晩年は日猶同祖論にも傾倒し、『日本及日本国民之起源』という著書を発表する。「日本人はユダヤ人と同じ祖先である」との考えを示し、ユダヤ人に対しては「日本と和親」を保ち、「神の道を天下に弘布し」「世界を真に平和に導くようなユダヤ人国家を建設せよ」と呼びかけている。 昭和16年(1941年)3月12日、心不全のため東京大井町の自宅で亡くなる、73歳。自身が苦学して滞在したアメリカとの開戦の年だった。墓は生前に指定した茨城県古河市の光了寺である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小谷部全一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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