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小酒井 不木(こさかい ふぼく、本名:小酒井 光次(こさかい みつじ)、1890年(明治23年)10月8日 - 1929年(昭和4年)4月1日)は、日本の医学者、随筆家、翻訳家、推理作家。別名「鳥井零水」。 == 来歴 == 1890年(明治23年)10月8日、愛知県海部郡新蟹江村(現・蟹江町)に生まれる。 1903年(明治36年)4月、愛知県立第一中学校に入学。 1908年(明治41年)4月、第三高等学校に入学。 1911年(明治44年)4月、東京帝国大学医学部に入学。 1914年(大正3年)12月、東京帝国大学大学院に入り、生理学・血清学を専攻。 1915年(大正4年)1月、25歳で愛知県立第一高等女学校の女教師である鶴見久枝と結婚。12月に肺炎を病み、片瀬海岸や森が崎に転地療養する。 1916年(大正5年)、前年の発病から半年後に快癒し、再び研究に従事。 1917年(大正6年)12月、27歳で東北帝国大学(現:東北大学)医学部衛生学助教授に任じられる。文部省より衛生学研究のため海外留学を命じられ、渡英する。 1919年(大正8年)、長男・望が生まれる。渡英後、ロンドンで喀血に襲われ、ブライトン海岸に転地療養。小康を得ていったんロンドンに戻る。 1920年(大正9年)、春にフランスのパリに渡る。再び喀血し南仏で療養。小康を得て帰国。11月に神戸に入港。10月に東北帝国大学医学部衛生学教授就任の辞令を受けているが、病のため任地に赴けず、長男を親元に預け、愛知県津島市の妻の実家で静養する。 1921年(大正10年)、医学博士の学位を取得する。「東京日日新聞」に『学者気質』を連載するが、篇中にあった「探偵小説」の一項が、前年創刊された探偵雑誌「新青年」(博文館)の編集長森下雨村の目に留った。森下は不木に手紙を書き、不木も「喜んで寄稿し、今後腰を入れて探偵文学に力を注ぎたい」と返書。 以後、研究の傍ら随筆、海外探偵小説の翻訳と、八面六臂の活躍で当時の探偵小説普及に大きく貢献する。12月に『学者気質』を刊行。この年31歳。 1922年(大正11年)、東北帝国大学を退職。静養に努める。『毒及毒殺の研究』を連載。 1923年(大正12年)、関東大震災のあと10月、親子三人で名古屋市中区御器所町に新築転居。文筆に専念。『殺人論』、『西洋犯罪探偵譚』の執筆、スウェーデンの大衆小説作家サミュエル・オーギュスト・ドゥーゼの『夜の冒険』を翻訳連載。『犯罪と探偵』を刊行。 1924年(大正13年)12月、「子供の科学」で少年探偵小説『紅色ダイヤ』連載開始。『西洋医談』、『科学探偵』、『殺人論』を刊行。 1925年(大正14年)、創作活動を始め、『呪はれの家』〔不木はこの『呪はれの家』を「処女作」と呼んでいる〕、『画家の罪?』、『按摩』、『虚実の証拠』、『遺伝』、『手術』などを発表、『犯罪文学研究』を連載。 10月より結成された大衆文芸作家の同人「二十一日会」に参加。『三面座談』、『近代犯罪研究』、『趣味の探偵談』を刊行。 1926年(大正15年)、『人工心臓』、『恋愛曲線』、『メデューサの首』などを発表。『闘病術』、『少年科学探偵』、『犯罪文学研究』を刊行。長女生まれる。 1927年(昭和2年)、『疑問の黒枠』を連載。 1928年(昭和3年)1月、自宅隣地に研究室を建て、血清学の研究を始める。『恋魔怪曲』、『好色破邪顕正』を連載。 1929年(昭和4年)4月1日未明、39歳(数えで40歳)の若さで急性肺炎のため逝去。不木の死はラジオや新聞で大々的に報じられ、4月4日の葬儀には多数の参会者が詰めかけた。 5月、『闘争』発表。翌年10月にかけ、『小酒井不木全集』(全17巻)が改造社から出版された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小酒井不木」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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