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小里氏(おりし)は、日本の氏族の一つ。土岐氏の庶流。 == 概要 == 小里氏は土岐元頼ないしその子の頼連から始まったとされ〔「小里家譜」〕、明応5年(1496年)の船田合戦により元頼が自刃すると、越前国の朝倉氏の元に逃れ、その後援を得て土岐、恵那両郡の旧領・約3,600石余を回復し、天文3年(1534年)、頼連の子・小里光忠は、小里城を築城した。 小里光忠は甲斐の武田信玄に従った後、織田信長に内通したが、元亀3年(1572年)11月の武田信玄の西上作戦の際に武田重臣の秋山虎繁に敗れ、嫡男の小里光次を失った(上村合戦)〔「寛永諸家系図伝」〕。 光忠の次子・小里光明は、天正2年(1574年)に美濃国内の武田家の岩村城を攻める拠点として小里城を改修し、池田恒興が城の御番手となった。 天正10年(1582年)の本能寺の変では、光次の子・光久が二条城で戦死している〔「寛政重修諸家譜」〕。 天正11年(1583年)、小里光明は織田信孝に仕えたが、賤ヶ岳の戦いの後に豊臣秀吉に敗れて信孝が自害した後は、森長可に攻められて小里城を離れ、和田姓を名乗って徳川家康に仕えた。 その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの功によって光明の子・光親は土岐、恵那郡の旧領を再び与えられ、小里城に復帰した。しかし光親の子・光重は嗣子がないまま元和9年(1623年)に亡くなったため、小里氏は断絶した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小里氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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