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小里 貞利(おざと さだとし、1930年(昭和5年)8月17日 - )は、日本の政治家。 衆議院議員(9期)、自由民主党総務会長(第41代)、自由民主党国会対策委員長(第39代)、労働大臣(第55代)、北海道開発庁長官(第61代)・沖縄開発庁長官(第30代)、総務庁長官(第21代)、震災対策担当大臣(村山内閣)、宏池会会長、鹿児島県議会議員(6期)を歴任。国政進出以来一貫して整備新幹線事業に携わり、「ミスター新幹線」の異名を取った。 長男は衆議院議員の小里泰弘。 == 来歴・人物 == 鹿児島県霧島町(現霧島市)出身。旧制加治木中学校卒業。 1959年(昭和34年)鹿児島県議会議員選挙に出馬し、初当選。以後6回連続当選を果たし、県議会議長も務めた。1979年(昭和54年)の6選後間もなく県議を辞職。第35回衆議院議員総選挙に旧鹿児島2区から自由民主党公認で出馬し、当選した(当選同期に佐藤信二・保利耕輔・畑英次郎・麻生太郎・岸田文武・白川勝彦・丹羽雄哉・亀井静香・吹田あきら・宮下創平・亀井善之・船田元など)。宏池会に所属し、宮澤喜一らに代表される官僚出身者が多い同派にあっては数少ない党人派であり、長らく田中六助に師事。その後は加藤紘一を支えた。1990年(平成2年)第2次海部改造内閣で労働大臣に就任し、初入閣を果たした。1991年(平成3年)に自由民主党の副幹事長に就任した。 1994年(平成6年)河野洋平自由民主党総裁の下で自由民主党国会対策委員長に就任。羽田内閣で閣外協力に転じた日本社会党の村山富市委員長、同党国会対策委員長の野坂浩賢らと、森喜朗自由民主党幹事長と共に水面下で接触し、自社さ連立政権樹立に向け、交渉を進めた。村山内閣では北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官に就任し、2度目の入閣を果たした。1995年(平成7年)阪神・淡路大震災の発生を受け、同年1月20日、閣内異動により北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官の職を離れて専任の震災対策担当大臣に就任。復旧・復興の陣頭指揮にあたった。 1996年(平成8年)衆議院予算委員会筆頭理事に就任。住専国会で、第1次橋本内閣を追及する新進党との激しい攻防戦を展開。新進党側の理事である小沢辰男、森本晃司らの抵抗に屈することなく採決させるなど、住専法案の成立に尽力。 2000年(平成12年)森喜朗総裁の下で自由民主党総務会長に就任。加藤の乱に際しては加藤紘一、山崎拓に内閣不信任決議案に賛成投票をせず、本会議欠席に留めるよう説得。その裏で、野中広務幹事長と交渉し、本会議を欠席した議員に対し除名などの処分を行わないことを約束させる。加藤、山崎による第2次森内閣倒閣運動は結果的には不発に終わったものの、党役員人事で小里は総務会長を離任。加藤の乱を契機に堀内光雄ら加藤派の反加藤グループが離脱して、少数派閥に転落した加藤派に残留。2002年(平成14年)に加藤紘一が議員辞職したため、派を預かり小里派会長に就任。 2005年(平成17年)の第44回衆議院議員総選挙には出馬せず、政界を引退した。引退後は自民党整備新幹線等鉄道調査会参与を務める。 2007年(平成19年)5月、福井市内で開かれた「福井県新幹線促進大会」に招かれ、北陸新幹線の福井県内延伸の見通しについて特別講演を行った。同年10月、九州新幹線開業における小里の業績を顕彰する「小里貞利先生胸像」が鹿児島中央駅構内に建てられた(碑文は小泉純一郎。小里を「ミスター新幹線」と賞賛する内容)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小里貞利」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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