|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 里 : [り] 【名詞】 1. ri (old measure) 2. 2. 44 miles
小里 頼永(おり よりなが、安政2年5月1日〔『信濃人事興信録』P.86〕(1855年6月14日) - 昭和16年(1941年)7月3日)は、松本市長、衆議院議員(自由党)。 == 経歴 == 松本藩士小里新五兵衛頼命の長男として江戸呉服橋の松本藩邸で生まれる。9歳の時に松本に帰り、藩校崇教館で漢学を学んだ〔『衆議院議員略歴』〕。廃藩置県後は開智学校英学課に学び、1875年(明治8年)、筑摩県師範学校を卒業。卒業後は筑摩県、のちに山梨県で訓導を務めた。自由民権運動が盛んになると、1879年(明治14年)に「要新聞」を発刊して自由民権を説いた〔『日本帝国国会議員正伝』P.237-238〕。1881年(明治14年)、松本に帰って信陽立憲党を組織して幹事長となり、松本日日新聞を発行した〔。町会議員のかたわら、1884年(明治17年)に県会議員に当選〔。県会議員として南信地方の分県や県庁の松本移庁を唱えた。 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たした。1898年(明治31年)、北海道空知支庁長に任命されたが内閣の更迭で任期は三ヶ月であった。 1902年(明治35年)、松本町長に就任。1907年(明治40年)に市制が施行されると引き続き市長を務め、1937年(昭和12年)に退職するまで30年の長きにわたって在任した。在職中に篠ノ井線の建設、歩兵第50連隊の誘致〔『大日本帝国市町村長銘鑑』P.8〕、松本高等学校、日本銀行松本支店の誘致などに尽力した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小里頼永」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|