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小野 正一(おの しょういち、1933年9月30日 - 2003年3月19日)は、福島県いわき市出身のプロ野球選手(投手)。 日本プロ野球歴代13位(2013年終了時点)の通算2244奪三振を記録した、球史に名を残す速球投手。妻は元大映女優の仁木多鶴子。 == 来歴・人物 == 磐城高校を卒業、社会人野球の常磐炭鉱、清峰伸銅でプレーしたのち、1956年毎日オリオンズに入団する。入団当初は一塁手も兼ねていたが、野口二郎コーチの目に留まり投手に専念する。2年目の1957年に26勝を挙げ、一躍エース格にのし上がる。 制球の面でやや難があったものの、185cmの長身から振り下ろされる速球と大きなカーブで三振の山を築いていった。1960年には西本幸雄監督の意向によりリリーフを主体に起用され〔ベースボールマガジン、2011年11月号 P28〕、最多勝利(33勝)、最優秀防御率(1.98)、最高勝率(.750)、最多完封勝利(5完封)の4冠に輝き、打の田宮謙次郎・山内一弘・榎本喜八らとともにリーグ優勝に貢献した。大毎はこの年、6月5日の対近鉄戦から6月29日の同じく対近鉄戦までプロ野球記録の18連勝を成し遂げているが、小野はこの間15試合に登板して6月22日からの東映3連戦3連勝を含む10勝をマークするなど、大車輪の活躍振りであった。 しかし、この年の酷使が尾を引いたためか、翌1961年以降緩やかに停滞期へと移行していく。1965年から大洋ホエールズで、1968年から中日ドラゴンズでそれぞれ3年間プレー。1970年、親分肌で若手から慕われていた小野に対し、マスコミは黒い霧事件への関与を疑い、セ・リーグ会長が小野の潔白を証明する事態にまで発展した。小野はこの騒動に嫌気がさし現役を引退。引退後は球界との関係を絶ち、鉄道ショップや運送会社等の経営に携わった。 2003年3月19日、胃癌のため逝去。69歳だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小野正一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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