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小金井 良精(こがねい よしきよ、1859年1月17日(安政5年12月14日) - 1944年(昭和19年)10月16日)は、明治から昭和にかけて活躍した解剖学者・人類学者。森鴎外の妹婿であり、星新一の祖父。 == 生涯 == 小金井良精は、越後長岡藩士で家老河井継之助に信任を得て郡奉行等の長岡藩要職を歴任した小金井儀兵衛の次男として越後国古志郡長岡(現新潟県長岡市)の今朝白町に生まれた。母は新潟奉行小林又兵衛の長女幸子。長兄は自由民権運動家で衆議院議員を務めた小金井権三郎。母幸子の兄小林虎三郎は、吉田松陰と並び佐久間象山門下の二虎と称された。〔「近代日本の科学者 第三巻 小金井良精」1.血縁関係 5-6頁(人文閣 昭和16年-17年)〕 1870年(明治3年)10月大学南校を経て、1872年(明治5年)10月第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)に入学、1880年(明治13年)7月に東京医学校(同年5月第一大学区医学校から改称)を卒業した。卒業前の5月より東京医学校雇医員に採用され、同校外科学教室の助手として同教室シュルツ博士より解剖学の手解きを受け、その後同年11月に日本よりドイツへ留学した。1881年(明治14年)1月ベルリン大学、翌年3月留学期間を通じて師事したワルダイヤー教授の下で1885年(明治18年)6月に帰国する迄解剖学と組織学の研究を続けた。この間1884年(明治17年)「網膜の発生に関する論文」、翌年「人類及び脊椎動物の虹彩に関する論文」を発表、1883年(明治16年)にはワルダイヤーに認められベルリン大学の助手に採用された。帰国後9月11日より当時の解剖学教授であったヂッセに替わり、解剖学講義を行った。翌1889年(明治22年)東京帝国大学医学部教授に任じられた。〔「近代日本の科学者 第三巻 小金井良精」2.学生時代 3.独逸留学 4.解剖学講義 6-15頁(人文閣 昭和16年-17年)〕 1888年(明治21年)に坪井正五郎と、その翌年の夏には妻・小金井喜美子と、北海道でアイヌの墓地から166の頭骨と副葬品を持ち去り〔 - 北大開示文書研究会 2011年6月10日〕、その骨格を調査して以来、人類学を専攻。アイヌ研究に基づいて、日本石器時代人はアイヌであるとし、坪井正五郎の唱えたコロボックル説を激しく批判した(コロボックル論争)。また、アイヌと日本石器時代人の研究過程で上顎と下顎の位置が現代人と異なる事に気づき「人間の咬合についての論文」を発表した。小金井の研究姿勢は「日本民族の人類学上の問題に専ら心を潜めて来ておられるけれども、その立場は飽くまでも解剖学者として立っておられた」と評され、あくまでも一解剖学者としての論理を貫いた。その後1893年(明治26年)から1896年(明治29年)には帝国大学医科大学学長を務め、1893年に日本解剖学会を創設した。1902年(明治35年)東京学士会院会員。1921年(大正10年)に定年を迎え、その後は教授職を退いていたが精力的に研究活動を続けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小金井良精」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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