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小関 庄太郎(こせき しょうたろう、1907年(明治40年)1月25日 - 2003年(平成15年)3月20日)は、戦前日本を代表するピクトリアリスム・芸術写真の写真家。 福島県福島市生まれ。1924年より写真を撮り始め、亡くなった2003年まで80年近い写歴をもつ、「最後の芸術写真家」の一人。 ==経歴== 福島商業学校卒業後、家業(小関屋、古着等を扱う)を手伝いながら、写真同好会・二葉会(1921年 - 1944年頃)に入会し、佐藤信(さとう まこと、1897年 - 1987年)、本田仙花(ほんだ せんか、1897年 - 1951年)の薫陶を受ける。 二葉会のメンバーには他に、菊田蝶秋、伊藤晨水、伊東松葉、伊藤弥十郎、川村重和、吹澤龍一、本間第一郎、三瓶秀三、金澤治男、三浦通庸、木村長雄、氏家健吉、村山俊吾、島崎得三郎、山崎金三郎などがいた。川村重和はのちに福島大学名誉教授、吹澤龍一は小児科医、木村長雄は鉄道員、主宰した佐藤信もまた鉄道機関士から写真店店長となった人で、多士済々であった。佐藤、本田は、アルス発行の『カメラ』誌の投稿常連で、本田は1925年の『カメラ』入賞第一位となっている。また中島謙吉(中嶋謙吉、1888年 - 1972年)の主宰した『芸術写真研究』などにも入選し、1920年代半ばから全国的に注目される存在となっていた。 小関は、1926年に『カメラ』に入選したのを皮切りに、『カメラ』『芸術写真研究』にたびたび入賞、原稿の執筆も行う。また田村榮が編集していた『フォトタイムス』にも原稿を寄稿するなど、関東大震災以降のいわゆる「ベス単派」を代表する一人に数え上げられている。1930年代以降は、初期の素朴な風景写真から、デフォルマシオンと呼ばれる印画紙を歪めて焼き付ける手法や、いわゆる「雑巾がけ」と呼ばれる修整技術により、絵画のような写真作品を作るようになり、近年とみに注目される存在となった。第二次大戦による活動中断を経ながらも、戦後も精力的に写真制作を続けた。 2001年には福島県立美術館で大規模回顧展が開かれ、小関の戦前・戦後の作品230点と、高山正隆、山本牧彦ら日本光画協会系作家の作品70点が展示された。2003年、老衰により福島市で没する(満96歳)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小関庄太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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