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少弐 冬資(しょうに ふゆすけ、延元2年/建武4年(1337年)〔「鍋島本 太宰少弐武藤系図」中の「横岳系図」の冬資項では「永和元年八月廿六日於肥後国水嶋討死、法名天岸存覚、三十九歳、」とあり(『大日本史料』6-44、P.122)、『北肥戦誌』覚書四「冬資討死并今川兄弟所々軍之事」の文中にも「八月廿六日生年三十九ニテ竟ニ腹切テ死ス、」とある(『大日本史料』6-44、P.127)によって永和元年(1375年)に39歳で死去とした場合の逆算による。但し、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』および『朝日日本歴史人物事典』の「少弐冬資」の項(コトバンク 所収)では、正慶2年/元弘3年(1333年)生まれ、死去時の享年を43とする。〕 - 天授元年/永和元年8月26日(1375年9月22日)は南北朝時代の武将。北九州の名門少弐氏当主。 少弐頼尚の次男。少弐直資の弟、少弐頼澄の兄。通称は孫二郎。法名は天岸存覚。 == 生涯 == 父・頼尚の娘婿(すなわち冬資らの義兄弟)となり擁立された足利直冬より偏諱の授与を受けて冬資と名乗る(兄・直資の名乗りも同様とされる)〔阪田雄一「足利直義・直冬偏諱考」。〕。 この頃九州では菊池氏や征西大将軍・懐良親王などの南朝勢力が台頭し、北朝勢力、すなわち幕府側の勢力は押されていた。父・頼尚の代には直冬を擁立するなど一時期は南朝と同調していたが、直冬が没落し、南朝と共通の敵であった九州探題・一色範氏の撃破に成功して後は南朝と敵対するようになっていた。延文4年/正平14年(1359年)に起きた筑後川の戦いで菊池武光ら征西将軍勢力に敗れ、兄の直資が戦死。代わって嫡子となるが、康安元年/正平16年(1361年)に大宰府有智山城を追われた父・頼尚が隠居、これを受けて家督を継いだものとされる〔『朝日日本歴史人物事典』「少弐冬資」の項(執筆:佐伯弘次)より。〕。 当主を務めることとなった冬資は大友氏や島津氏と協力して南朝勢力と戦う一方で、幕府から新たな九州探題を派遣してくれるように要請していた。時の将軍・足利義満はこれに応じて応安4/建徳2年(1371年)、今川貞世(了俊)を探題として送り込んだ。冬資も了俊の元へ参じ、応安5/文中元年(1372年)2月に大内弘世と共に大将を任され筑前国の多良倉城と鷹見城を攻撃した〔『征西将軍宮』(東京宝文館 大正4年)。〕。このとき冬資は敗退するも、安芸国の毛利氏・吉川氏、備後国の長井氏・山内氏、石見国の周布氏らの尽力もあって両城を落とすに至り〔、更に8月には南朝征西府の政庁となっていた大宰府も北朝方の手に取り戻した〔。了俊のもとで反攻に転じた幕府勢力は、徐々に南朝勢力を駆逐し、応安7/文中3年(1374年)には島津氏久、大友親世、そして少弐の援軍を得て一挙に南朝勢力を駆逐しようとしたが、冬資はこの頃、宗像大宮司家の社領に対し押妨や違乱を繰り返しては了俊に止めるよう通告されており〔川添昭二『今川了俊』 (吉川弘文館、1964年)付録の略年譜より。〕、了俊と仲が悪かったために援軍を送らなかった。 しかしこの為、了俊に南朝側と内通していると猜疑され、翌年に冬資は了俊に肥後国水島(現・熊本県菊池市七城町)に誘引され暗殺されてしまったのであった(水島の変)。その後は弟の頼澄が家督を継ぎ、少弐一族は再び南朝方と同調して了俊に抵抗した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「少弐冬資」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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