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尚円王(しょうえんおう、旧字で尚圓王、永楽13年(1415年) - 成化12年7月28日(1476年8月17日))は琉球王国・第二尚氏王統の初代国王(在位:1469年 - 1476年)。即位以前の名は金丸(かなまる)、童名は思徳金(うみとくがね)と言った。神号は金丸按司添末續之王仁子(かなまるあじすえつぎのおうにし)。 == 生涯 == === 即位前 === 1415年、沖縄本島の北西部に浮かぶ伊平屋伊是名諸島の伊是名島の諸見村(現在の、行政上は島尻郡に属する伊是名村諸見)に父・尚稷、母・瑞雲の長男として生まれたと言われている。童名は思徳金(うみとくがね)と言った〔伊是名には童名は松金だったという伝承がある。〕。父を助けて農業を手伝っていたが、金丸が数え年で20歳(1439年)の時、両親を亡くしたとされる。そのとき、弟(後の尚宣威王)は5歳だった。 しばらく農業に励んでいたが、旱魃にもかかわらず金丸の田だけ水が枯れなかったことから、村人たちから盗水の嫌疑をかけられるようになった。耐えかねた金丸は、正統3年(1438年)、24歳の時に妻と弟を連れて島を後にし、沖縄本島の国頭村(現・国頭郡国頭村)へ逃亡したと伝えられる。ただしこの伝説は、尚巴志王の祖父・佐銘川大主(さめかわおおぬし)の伝説との類似が指摘されており、それをなぞった後世の作り話との説もある。 国頭村でも余所者ということで金丸一家は受け入れられず、正統6年(1441年)、27歳の時に再び国頭村を後にして、久志などを経て首里(現・那覇市)へ向かった。首里に到着すると、金丸は当時王叔だった越来王子(後の尚泰久王)に見い出されて、その家臣となった。当初は下役であったが、金丸は直ちに頭角を表し、景泰3年(1452年)、38歳の時に黄冠に昇った。冠の制度は後の嘉靖3年(1524年)の制定であるので、黄冠という史書の記述は後世の当てはめであろうが、紫冠相当(親方)の位階のなかった当時においては黄冠は最高位であり、金丸は首里に再移住・仕官して10年前後で高官に抜擢されたことになる。その後尚泰久が即位すると、景泰5年(1454年)に西原間切の内間領主に任命された。仕官14年目にして、自らの領地(采地)を有するまでに出世したのである。 金丸はその後も順調に出世し、天順3年(1459年)には、御物城御鎖側官(貿易長官)に就任した。この職は同時に王への取次職でもあり、王への上申は金丸を経由する必要があることを意味した。尚泰久王の信頼が絶大であったことがうかがえる。しかし、翌年、尚泰久王が薨去すると、世子尚徳が即位したが、尚徳王と金丸の関係は尚泰久王の時のようにはいかず、血気にはやる若き王を金丸が諫めることもしばしばであった。史書では、尚徳王の悪政がつづられているが、真偽は定かでない。いずれにしろ、成化2年(1466年)には喜界島に尚徳王自ら遠征に出向くなど、無謀とも思える政策を重ね、次第に重臣の信頼を失っていったのは確かなようである。果たして喜界島への親征は成功し、琉球は奄美群島を一応は支配下に収めることになったが、成化4年(1468年)8月、金丸はついに内間村に隠遁することになる。54歳の時であった。 翌成化5年(1469年)4月、尚徳王が薨去し、法司(三司官)はその世子を即位させようと、重臣たちを招集して会議を開いたが、国王としての資質を問われ、その席で金丸を次期王に推すことが決定され、金丸は隠遁先から首里に迎えられ即位し、尚円と名乗る。〔明との朝貢貿易が琉球経済の柱であり、この関係を認められるためには、王統の継続を装うことが必要であった。尚巴志も、父思紹は武寧の子であると称して明に遣使している。〕ここから第二尚氏王統が始まった。伝承ではこの場で、泊村の老人安里大親が神がかりして「物呉(ものく)ゆすど我御主(わがうすう)、内間御鎖(うちまうざし)ど我御主」(財貨を与えてくれる者こそ我が主であり、それは内間金丸さまである)と謡いだした。それを聞いた一同は「ヲーサーレー」(その通り)と唱和して、金丸を王に推戴したという。 この王朝交代劇は、第二尚氏公式の史書である『中山世譜』『球陽』にそれぞれ、「(尚徳の)世子将に立つ。群臣之を殺す。国人金丸を推戴す。君と為す。(中山世譜巻1 歴代総紀)」、「貴族近臣、其の変有るを見、先を争ひて逃去す。王妃・乳母、世子を擁着して真玉城に隠る。兵、追ひて之れを殺す。(球陽巻3附紀 尚円王伝)」とあり、クーデターが行われたことは間違いない。ただし、この企てに金丸自身が積極的・主体的に関与していたか否かは定かではなく、あくまでも事後に群臣の推挙を受け、一度は隠遁した身ながらやむを得ず王位を受けた、という体裁である。 このクーデターの時期は、『球陽』の記述からすれば7月となる。 伝承では、第一尚氏の後裔と称する門中はいくつかある。たとえば、孫氏平田家(尚思紹王次男(三男とも)後裔)、武氏嘉陽家(尚泰久王五男後裔)、明氏亀谷家(尚徳王三男後裔)等である〔比嘉朝進『士族門中家譜』 球陽出版 2005年。〕。もっとも家譜に記載があるわけではないので真偽はわからない。それゆえ、実際どの程度の虐殺があったのかは不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尚円王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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