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『尚武のこころ』(しょうぶのこころ)は、三島由紀夫の対談集。三島の晩年の思想、評論を知る上で重要な対談集で、所々に三島の自決を暗示させる言葉が散見されている〔竹内清己「『尚武のこころ』」()〕〔市山研「尚武のこころ」()〕。1968年(昭和43年)から1970年(昭和45年)にかけ雑誌、新聞紙上で行なわれた小汀利得、中山正敏、鶴田浩二、高橋和巳、石原慎太郎、林房雄、堤清二、野坂昭如、村上一郎、寺山修司との対談10話が収録されている。政治問題からヤクザ映画や空手談義まで幅広い内容である。1970年(昭和45年)9月25日に日本教文社で刊行された。1980年代後半まで重版されたが、現在は版元品切れである。 == 収録内容 == ;「天に代わりて」 対:小汀利得 :1968年(昭和43年)、雑誌『言論人』7月16日号に「放談・天に代わりて…」のタイトルで掲載されたもの〔に所収〕。 :※ 対談実施日は7月3日。 ;「サムライ」 対:中山正敏 :1969年(昭和44年)、雑誌『勝利』6月号に掲載されたもの。 ;「刺客と組長――男の盟約」 対:鶴田浩二 :1969年(昭和44年)、雑誌『週刊プレイボーイ』7月8日号に「『刺客と組長』――その時は、お互い日本刀で斬り込むという男の盟約」のタイトルで掲載されたもの〔。 ;「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」 対:高橋和巳 :1969年(昭和44年)、雑誌『潮』11月号に掲載されたもの〔。 ;「守るべきものの価値――われわれは何を選択するか」 対:石原慎太郎 :1969年(昭和44年)、雑誌『月刊ペン』11月号(創刊一周年特大号)に掲載されたもの〔。町田勝彦同誌編集長が同席。 ;「現代における右翼と左翼」 対:林房雄 :1969年(昭和44年)、雑誌『流動』12月号(創刊号)に「リモコン左翼に誠なし」のタイトルで掲載されたもの〔。 ;「二・二六事件と全学連学生との断絶」 対:堤清二 :1970年(昭和45年)、雑誌『財界』1月1日・15日合併号に「財界放談室 堤清二対談6」のタイトルで掲載されたもの〔。 :※ 対談実施場所は有楽町・胡蝶。 ;「剣か花か――70年代乱世・男の生きる道」 対:野坂昭如 :1970年(昭和45年)、雑誌『宝石』1月号に掲載されたもの〔。 :※ 対談実施日は前年12月末。実施場所は銀座・マキシム。 ;「尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命」 対:村上一郎 :1970年(昭和45年)、新聞『日本読書新聞』1月1日号(1969年12月29日・1970年1月5日合併新年特大号)に掲載されたもの〔。 ;「エロスは抵抗の拠点になり得るか」 対:寺山修司 :1970年(昭和45年)、雑誌『潮』7月号に掲載されたもの〔。 三島は「あとがき」で、ゲラ刷りを読みながら、「自分のお喋りに全く厭気がさした」とし、様々なことを諸所で喋りまくったものの、その結果、「日本が少しでも自分の望むやうな形に変つたか。否、明らかに、私のお喋りが望んでゐたのとは反対の方向へ変つたのである」と悔恨しつつも、対談した人たちは、それぞれ思想は「千差万別」だが、「右顧左眄して物を言ふやうな人」が誰もなく、それが「私の倖せでもあり、名誉でもあつた」とし、彼らたちを振り返り、以下のように語っている〔「あとがき」(『尚武のこころ 三島由紀夫対談集』日本教文社、1970年9月)。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尚武のこころ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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