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尼子 久幸(あまご ひさゆき)は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣。出雲国守護代尼子清定の子。別名に尼子義勝。 == 経歴 == 享禄3年(1531年)、「尼子氏過去帳」において尼子下野守殿子息が死去したと記されており、法名「源春禅定門」と記される。若くして嫡男を失ったことが確認され、後に父が戦死したために家督継承した詮幸の幼名が、次郎四郎なのも次男だからである。 天文9年(1540年)、大内氏との対立が激しくなり、主君の尼子詮久(のちの尼子晴久)は、豊後国の大友氏などの反大内勢力と結託し、大内義隆への圧力を強める。その一環に尼子から大内へと寝返った安芸国国人の毛利元就を安芸国守護武田氏の要請も受け入れ討伐を決定し、久幸もこれに同行した。 はじめは尼子側に形勢は有利だったものの、その多くが尼子の直接配下に居る軍勢ではないため、指揮系統は混乱しやすく敗走を重ね、補給路も確保出来ないまま長期戦へと縺れた。翌天文10年(1541年)の1月、宮崎長尾の戦いにて、大内方の陶隆房(陶晴賢)が尼子本陣を奇襲し、久幸は戦死したとされる(吉田郡山城の戦い)。 久幸の亡骸は毛利氏によって安芸吉田に埋葬された。現在も碑文とともに尼子下野守義勝の墓と供養塔が残っている。月山富田城近隣の城安寺(島根県安来市)にも墓石が残っている。 家督は後に次男の次郎四郎詮幸が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尼子久幸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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