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尼子十勇士 : ミニ英和和英辞書
尼子十勇士[あまごじゅうゆうし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あま]
 【名詞】 1. (col) nun 2. bitch 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)
: [とお]
  1. (num) 10 2. ten 
: [ゆう]
 【名詞】 1. bravery 2. courage 3. heroism 
勇士 : [ゆうし]
 【名詞】 1. brave warrior 2. hero 3. brave man 

尼子十勇士 : ウィキペディア日本語版
尼子十勇士[あまごじゅうゆうし]

尼子十勇士(あまごじゅうゆうし)は、戦国大名尼子氏滅亡後に尼子氏の復興に勤めたとされる10人の勇士である。この10人は、尼子晴久が部下4万人余りの中から選び出した勇力の優れた人物という〔『後太平記』地部巻第四十 山中鹿之助品川狼介勝負之事〕〔『名将言行録』巻三 山中幸盛〕。山中鹿之助(山中幸盛)を筆頭とするが、その構成員は幸盛を除けば不定であり、時代によっても異なる。また、名前の最後に皆「介(助)」が付くことから「尼子十勇十介」ともいう。
== 十勇士の成立 ==
尼子十勇士は、明治時代に立川文庫から発刊された『武士道精華 山中鹿之助』によって有名になったが、立川文庫の創作ではない。それ以前から、その存在は知られていた。
しかしながら、幸盛が活躍していた当時の史料には「尼子十勇士」の名称は見られない。
十勇士の存在がいつ頃から信じられえていたか定かでないが、史料に初めて出てくるのは、延宝5年(1677年)に発行された『後太平記〔「多々良 一龍」が編纂した、『太平記』の後の時代、応安元年(1368年足利義満の時代から天正6年(1578年)尼子再興軍の滅亡までを記した軍記物語。延宝5年(1677年)刊行。元禄5年(1692年)に発行された「井上家正」校正の『後太平記』には、「多々良 一龍」の原選80巻を「多々良 一吹」が元和3年(1617年)より集録して42巻としてまとめたと著されるため、1617年には草案ができていたという説もある。〕』である。ただし、十勇士と明記されている人物は、五月早苗介(助)〔「尼子家三軍の中にて十勇と選出されたる」。地部巻第三十八 雲州志賀城没落之事 並 高瀬城明去事〕、寺元生死助〔「(尼子)晴久朝臣選出されたる十勇の兵」。地部巻第四十 寺本生死助借前立物事〕、横道兵庫介〔「尼子十勇士の内に横道兵庫介と言ふ者あり」。地部巻第四十 雲州富部合戦之事〕、山中鹿之助幸盛〔「尼子晴久、四萬余騎の群下の中より大勇十騎を選出し、その第一に定められる」。地部巻第四十 山中鹿之助品川狼介勝負之事〕の4人だけであり、その他の人物が十勇士であったかどうかは判断できない。
十勇士すべての名が史料に出てくるのは、享保2年(1717年)に刊行された『和漢音釈 書言字考節用集〔正式な名称は『和漢音釈 書言字考節用集』。「槇島昭武」編纂。享保2年(1717年)刊行。日常語の用字、語釈、語源などを示した書で、いわゆる国語辞典のようなもの。「第10巻 数量、性氏」に「尼子十勇十介(あまごじゅうゆうじゅっすけ)」の項目がある。〕』である。この書は、日常語の用字、語釈、語源などを示した、いわゆる国語辞典のようなものである。そのため、この時代に「尼子十勇士」という名称が一般的に通用するものであったことが分かる。正徳3年(1713年)10月、松山藩士であった前田市之進時棟と佐々木軍六が、幸盛の死を哀れみ建立した墓碑〔阿井の渡し(現在の岡山県高梁市)に建つ幸盛の墓〕にも「尼子十勇」の文字が刻まれている。明和4年(1767年)に湯浅常山が発行した戦国武将逸話集、『常山紀談 〔岡山藩士「湯浅常山」がまとめた戦国武将の逸話集。明和4年(1767年)に完成したが、発刊は文政1818年から1830年)年間の後半とされる。巻六に「尼子十勇士」について記載がある。〕』にも10名の勇士の名が連ねてある。
しかし、これら史料は、幸盛以外の人物の記載は乏しく、十勇士の面々がどういった性格で、どんな活躍をしたか等を知ることができなかった。十勇士の人物像について始めて具体的に記述された史料は、文化8年(1811年) - 文政4年(1821年)にかけて刊行された『絵本更科草紙〔文化8年(1811年)から文政4年1821年にかけて発行された、鹿之助の母、更科姫と、尼子十勇士による活躍を描いた物語。初編、後編、第三篇それぞれ5冊からなる全15巻。著者は栗杖亭鬼卵。画は、初編、後編が石田玉山。第三編の画は一峰斎馬円が担当した。〕』である。
この書は、幸盛の母である更科姫と、尼子十勇士による活躍を描いた物語である。書と共にこの話は全国的に広まったようであり、この後には、十勇士を題材にした浮世絵の描画〔表題は「尼子十勇士之図」。江戸時代に活躍した錦朝楼芳虎(歌川芳虎)<生没不明>の浮世絵。芳虎は歌川国芳の門下生。〕〔表題は「尼子十勇士面々会合主家再興評定図」。江戸時代に活躍した豊原国周<1835年-1900年>の浮世絵。国周は歌川豊国の門下生。幸盛の妻とされる九重姫も共に描かれる。〕や歌舞伎の上演〔文化10年(1813年)8月27日 京都因幡薬師『絵本更科話』、天保3年(1832年)8月吉日 京都北座『絵本更科話』ほか〕、また十勇士が描かれた絵馬が神社に奉納される〔天保9年閏4月(1838年5月)、伯耆国会見郡車尾(現在の鳥取県米子市車尾)に住む深田稲保之助が清水寺へ奉納した絵馬。表題は「尼子十勇十介」。現在は清水寺の根本堂に掲示される。〕など、世間一般にこの話が浸透していったことが分かる。
明治時代に入ると、先の『絵本更科草紙』と同じ内容で、表題を『尼子十勇士伝〔明治16年(1883年)4月21日、春陽堂より発刊。上巻、中巻、下巻からなる全3巻。内容は『絵本更科草紙』と同じ。編集は出版人でもある「和田篤太郎」。〕』とした書が刊行される。明治44年(1911年)12月、『絵本更科草紙』の内容を簡略化し、大衆向けに噛み砕いた文で表した書、『武士道精華 山中鹿之助〔明治44年(1911年)12月10日、立川文明堂より発刊。表題は、『立川文庫 第十七編 武士道精華 山中鹿之助』。著者は「雪花散(山)人」。内容は、『絵本更科草紙』の話をほぼ踏襲するが、処所に脚色や簡易化が見られる。〕』が立川文庫より発行されると、尼子十勇士の名は一躍有名になる。昭和26年(1951年)には『大百科事典』にも掲載された〔『尼子盛衰人物記』P270より。『大百科辞典 全16巻・縮刷版』(平凡社 1951年)か。なお、現在の『世界大百科辞典』には記載がない。〕。現在は、『広辞苑〔『広辞苑-第五版』新村出 編(岩波書店 1998年11月11日)。〕』にもその項目がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「尼子十勇士」の詳細全文を読む




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