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尼子 晴久(あまご はるひさ)は、戦国時代、出雲の戦国大名、出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の守護大名。尼子経久の嫡孫に当たる。 == 生涯 == === 家督相続 === 永正11年(1514年)、尼子経久の嫡男・政久の次男として生まれる。幼名が、父祖たちも用いた幼名・又四郎でなく三郎四郎であったのは政久の長男にあたる兄がいたからである(ちなみに晴久の子の義久も同様である)。 しかし、政久の嫡男(跡取り)となる筈であった兄(名乗りは又四郎か)は夭折。これに伴い次男の三郎四郎が代わって政久の跡目と成る。さらに本来なら尼子氏の家督を継いでいたはずの父・政久も、永正15年(1518年)の出雲阿用城攻めで陣没。このため祖父・経久の世子(直接の跡取り)に繰り上がった三郎四郎が、天文6年(1537年)には経久の隠居により、家督を継いで当主となった。元服後の初名は詮久(あきひさ)と称した。 この頃、叔父・興久(経久の三男)を粛清したことで備後山内氏と疎遠に、そして重臣・亀井秀綱の主導による毛利氏の家督相続への介入に失敗した事で、毛利氏の大内氏への転属を許し、備後国や安芸国への支配力低下を招いていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尼子晴久」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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