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尾崎 一雄(おざき かずお、本名同じ、男性、1899年12月25日 - 1983年3月31日)は、日本の作家。 == 来歴・人物 == 実家は祖父の代まで神奈川県小田原市の宗我神社の神官を務めた一族だが〔 小田原市〕、父の赴任先の三重県宇治山田町(現・伊勢市)で生まれる。16歳で志賀直哉の『大津順吉』を読んで感動し、作家を一生の仕事にしようと決心する〔NHKラジオアーカイブ「我が文学我が回想」(1982年8月4日放送)本人談〕。神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、早稲田高等学院を経て、早稲田大学文学部国文科卒業。政治家河野一郎とは早稲田大学も含め同級生であった。 学生時代に肺病を患ったことから、憧れの志賀直哉に一刻も早く会いたいという気持ちになり、志賀の親戚という同級生に紹介を頼み〔、志賀に師事する。山口剛や窪田空穂の影響を受けた。早稲田時代から古本収集をしており、多くの文芸書の初版・限定本を得たが貧窮した時期に売ってしまった。 1925年、同人雑誌『主潮』に『二月の蜜蜂』を発表し、1枚2円50銭という破格の原稿料を手にする〔。新進作家として注目されたが、5年に渡って停滞期を送る。その理由として本人は、全盛であったプロレタリア文学に圧迫され締め出されたこと、志賀のようになりたいと頑張ってきたがスタミナ切れで息切れしたことを挙げている〔。1931年に金沢の女学校を出たばかりの山原松枝と結婚し、これを期に再起。志賀から西鶴の現代語訳の仕事をもらい、1932年に志賀と共著の形で出版。志賀は西鶴の力強さが失われるとして現代語訳自体に否定的であったが、尾崎の経済的困窮を見かねて引き受け、尾崎に印税を与えた〔。1937年、短篇集『暢気眼鏡』で第5回芥川賞を受賞し、作家的地位を確立した。 1944年、病気のため郷里下曽我に疎開し、長い療養生活を経て、以後この地で作家活動を行った。 上林暁と並んで戦後期を代表する私小説(心境小説)の作家として知られる。その文章は、ユーモアと負けん気、理不尽への怒りを背景に、独特のリズムとさわやかな読後感が印象的。三島由紀夫は尾崎の作風を「着流しの志賀直哉」と呼んだ。特に晩年の小説とも随筆とも判別しがたい自由闊達の作品は、その心境の深まりとあいまって、心境小説の典型を示している。 代表作は、『暢気眼鏡』『虫のいろいろ』『すみっこ』『まぼろしの記』『虫も樹も』『あの日この日』など。最晩年に筑摩書房で『尾崎一雄全集』全15巻が刊行された。 1964年日本芸術院会員、1978年、文化勲章受章、文化功労者。1983年3月に自宅にて急逝した。遺稿は同月に亡くなった小林秀雄の追悼記だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尾崎一雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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