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尾崎 行雄(おざき ゆきお、安政5年〔戸籍上は翌6年の旧暦11月20日〕11月20日(1858年12月24日) - 昭和29年(1954年)10月6日)は、日本の政治家。日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれる。正三位勲一等(1946年(昭和21年)5月4日付返上)〔尾崎行雄とは(年譜) - NPO法人咢堂香風ホームページ 2010年10月15日閲覧。〕。伊勢神宮内宮前・合格神社の祭神〔合格神社 〕。 号は咢堂(がくどう。最初学堂。愕堂を経て咢堂)。称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民。世界連邦建設同盟(現、世界連邦運動協会)初代会長。 == 略歴 == === 生い立ち === 安政5年11月20日(1858年12月24日)、相模国津久井県〔1870年(明治3年)までは津久井県と称し、同年に津久井郡と改称した。〕又野村(現・神奈川県相模原市緑区又野)生まれ。幼名は彦太郎。 行雄の父・尾崎行正の生家は漢方医を業とし、漢学者・藤森弘庵の私塾に桂小五郎(木戸孝允)の先輩として学んだ。尾崎家の先祖は今川義元の家来で、武田信玄に攻め立てられて没落した。尾崎家は天正18年(1590年)に後北条氏が滅びてから又野に移り、累世相続いて里長となる。掃部頭行永以前の尾崎家先祖が住んでいたといわれる伏馬田城というのは現在の相模原市緑区牧野(まぎの)にあったが、その城跡一帯は現在尾崎ヶ原といわれている。 父・行正(彦四郎)は、戊辰戦争の際、官軍土佐藩迅衝隊総督の板垣退助の徳を慕って馳参じ、隊長・美正貫一郎の率いる断金隊(旧武田家臣の子孫たちで構成された部隊)に加わって会津戦争を戦い抜き、貫一郎の討死後は、断金隊の二代目隊長に任ぜられ、維新後は弾正台の役人となった。 行雄は11歳まで又野村で過ごした後、父・行正に従い明治元年(1868年)に番町の国学者・平田篤胤の子・鉄胤が開いていた平田塾にて学び、次いで明治4年(1871年)に高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ。その後、明治5年(1872年)に度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を移す。行雄も宮崎文庫英学校に入学した。父は熊本転任が予定されていたため、東京遊学を許し行雄に弟を同行させて慶應義塾へ向かわせた。 明治7年(1874年)に弟と共に上京し、当時「日本一の学校」との名声を得ていた慶應義塾童児局に入学するやいなや塾長の福澤諭吉に認められ、十二級の最下級から最上級生となる。明治8年(1875年)のクリスマスに聖公会のカナダ人宣教師で英語教師のA・C・ショーよりキリスト教の洗礼を受ける。〔守部喜雅『聖書を読んだサムライたち』いのちのことば社(2010年),141頁〕その後、直ちに世の中で役に立つ学問を求めた尾崎は、反駁する論文を執筆して慶應義塾を退学し、福沢の友人で工学寮の校長ダイヤーと大鳥圭介に紹介文を書いてもらい、染物屋になるため明治9年(1876年)に工学寮(のちの工部大学校。現・東京大学工学部)に再入学するも学風の違いや理化学へのいやけから『曙新聞』などに薩摩閥の横暴を批判する投書を始め、それがいずれも好評を博したため、一年足らずで退学。その後、慶應義塾に戻り、朝吹英二が経営した『民間雑誌』の編集に携わり、共勧義塾で英国史を論じたり、三田演説館で演壇に立つなどした〔慶應義塾の伝統②憲政の神様尾崎行雄 〕。 明治12年(1879年)には福澤諭吉の推薦で新潟新聞の主筆となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尾崎行雄」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yukio Ozaki 」があります。 スポンサード リンク
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