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尾崎 彰春(おざき あきはる、1930年6月6日〔''山口組ドキュメント 五代目山口組'':『五代目山口組本家組織図』 、1990年、溝口敦、''三一書房''、ISBN 4-380-90223-4〕 - )は、日本のヤクザ。指定暴力団六代目山口組顧問、心腹会前会長。 本名は『尾崎昭治』。 == 来歴 == 昭和5年(1930年)6月6日生まれ。 1950年に、神戸市新開地の稲荷市場にある下宿屋に下宿する。この下宿屋は元々「蛸文」という魚屋であり、その主は三代目山口組田岡一雄組長の舎弟・中坂文八であった。この下宿屋には、他にも山本健一や、前田豪、益田芳夫、益田啓助(益田芳夫の弟)、大平一雄など、後に山口組の中核を担うことになる人物が多く下宿していた。 そして、山本健一なども出入りしていた安原会に出入りし、ヤクザの世界で本格的に活動するようになる1953年には、山本健一、山口組若衆・清水光重、益田芳夫の3人とともに鶴田浩二襲撃事件を引き起こしたほか、その翌1954年には山口組と谷崎組の抗争事件に絡んで逮捕されている。その後も、1957年の山口組による小松島抗争への介入の際には、指揮官であった地道行雄などと共に小松島に乗り込むなど、活動を続けた。 転機となったのは1964年の「暴力取締対策要綱」策定であった。この「暴力取締対策要綱」に基づき、警視庁は同年2月、「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦)を開始した。このころ尾崎は安原会の副会長を務めていたが、第一次頂上作戦開始からおよそ4年後の1967年、会長の安原政雄が頂上作戦の影響などもあってヤクザから引退し、同時に安原会を解散してしまった〔溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9のP.289〕。これを受けて尾崎は安原会の解散反対派を集めて同月に新組織・心腹会を結成した。 心腹会結成後は、結成からおよそ1年後の1968年11月に、田岡一雄・三代目山口組組長から盃を受け、田岡の若衆となった。これにより山口組の直参に昇格し、現在に至るまでの山口組の主要なメンバーとなった。 1981年に田岡組長が死去し、さらにはその翌1982年に四代目組長と目されていた山本健一も死去したことをきっかけに山口組四代目跡目問題が浮上したが、尾崎はこの跡目問題の際には、最終的に竹中正久を次期組長に推す勢力の支持に回った。そして竹中の四代目組長襲名にあたって、竹中の舎弟に直った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尾崎彰春」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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