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尾田組(おだぐみ)は奈良県奈良市にある建設会社。宮大工としての伝統技術を保持するとともに奈良市近代化のシンボル的な洋風建築を手がけ、また土木事業においては奈良公園の大部分を整備するなど、古都奈良にふさわしい企業として独特の評価を保つ総合建設会社である。 == 歴史 == 1830年(天保元年)創業とされている。これはこの年に奈良奉行所が発行した鑑札が現存しているからで、実際にはそれ以前から営業していたと考えられる。この頃は東大寺など寺社の修理が主な事業で、東大寺の門前を東に行った手向山八幡宮付近で営業を行っていた〔三島1999年 p.214〕。 明治初期、その後奈良国立博物館旧館が建つ付近に移って営業を行う。この場所は東大寺、興福寺、春日大社などに近く宮大工の仕事に便利であるとともに、奈良市の近代化に伴う建築の仕事にも便利な地点であった〔。 1885年(明治18年)12月に内閣制度が開始され宮内省が発足すると、尾田組は古社寺の修理をしていた関係から宮内省御用達の企業に指定される。その後奈良県内を主とする多数の御陵の修復工事を請け負うことになった〔三島1999年 p.218〕。 1889年(明治22年)、帝国奈良博物館(現・奈良国立博物館)の建設決定に伴い本社を春日野町に移転。この年には奈良を代表する高級料亭旅館となる菊水楼の本館建設に着工し2年後に完成した〔三島1999年 p.216〕。 1892年(明治25年)2月29日、清水組(現・清水建設)と共に請け負った帝国奈良博物館の建設起工。博物館は宮廷建築家・片山東熊の設計による木骨煉瓦造り平屋モルタル外装のネオ・バロック様式の洋風建築で1894年(明治27年)12月19日に竣工した〔三島1999年 p.215〕。 1899年(明治32年)から翌年にかけて、奈良公園の改良整備事業の最重要工事として奈良県が実施した春日奥山周遊道路建設のすべてを担当した。それまでの林道を拡張する全長11キロメートルの工事であった〔三島1999年 p.217〕。 1908年(明治41年)、奈良女子高等師範学校本館(現・奈良女子大学記念館)の建築を請け負いその設計、施工を行う。建物は1909年(明治42年)10月25日に完成し、尾田組にとっても記念碑的な作品となる〔三島1999年 pp.215 f〕。これら明治期の発展を担ったのは5代目棟梁の尾田利平であった〔。 1922年(大正11年)、生駒山登山自動車道路の新設工事を行う〔。なお大正期から昭和戦前期の経営を担ったのは6代目の尾田利吉である〔三島1999年 pp.216 f〕。 1946年(昭和21年)、7代目尾田利一が軍隊から帰宅し支配人となる。第二次世界大戦後の混乱期は寺社関係の仕事は全くなく事務所や個人住宅の建設修理が多かったが、土木関係は道路建設などの仕事が増えていった〔三島1999年 p.219〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尾田組」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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