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屋鋪 要(やしき かなめ、1959年6月11日 - )は、大阪府生まれ〔外部リンク『屋鋪要さん 父親から受け継いだ蒸気機関車の撮影(2/2)』内プロフィール〕〔『週刊現代』2012年6月16日号掲載カラーグラビア『盗塁王・屋鋪要が撮った 僕のSL写真コレクション』内プロフィール〕兵庫県川西市出身〔『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』P65〕の元プロ野球選手(外野手)で、現在は鉄道写真家、少年野球・大学野球のコーチである。 == 来歴・人物 == 大阪市此花区に生まれ、1967年夏に兵庫県川西市に移り住む。小学校4年生の時、地元の少年野球チームに入ったのが野球人生のスタートである。三田学園高校から1977年のドラフトで大洋ホエールズ(1978年から横浜大洋ホエールズ)より6位指名を受け、入団しプロ入り。高木豊、加藤博一と共に「スーパーカートリオ」として活躍した。本人の証言によると、当時の監督であった近藤貞雄が命名したのは「スポーツカートリオ」で、以降マスコミによって「スーパーカートリオ」と名付けられる様になる。スーパーカートリオの結成以前は1番を打つことが多かったが、スーパーカートリオ結成時では3番を任された。引退後、この起用について「豊さんはヒットを打つのが上手いから1番なのはわかる。加藤さんは小技もできるから2番でいいとして、僕が3番を打つのは無理だと思った」と語っているが、打順を意識したのか、結成1年目は唯一の2ケタ本塁打を記録している。その後、加藤に代わって高橋真裕が2番に入ったニュースーパーカートリオでは、高木豊が3番、屋鋪が1番に落ち着いた。 からまで3年連続盗塁王を獲得。右中間や左中間の飛球でテレビカメラにボールしか映っていない場面で、落下直前に突然画面内に現れて捕球してしまう守備範囲の広さ・プレースタイルが忍者を連想させたことから、名字に掛けてマスコミから「忍者屋敷」とあだ名されていた。 球団名が横浜ベイスターズとなった1993年のオフに自由契約となり、1994年に読売ジャイアンツ(巨人)へ移籍。初の古巣との対決となった4月12日の横浜スタジアムでの試合では、最終回の守備に就く。この時、前年まで在籍していたベイスターズファンからも大きな歓声と拍手で迎えられた。この最終回にロバート・ローズの打球が屋鋪の守備位置に飛んで来たが、折からの風雨のために両手を挙げる形でエラーをしてしまい、サヨナラの決勝点を許す。この時の公式の記録はローズのツーベースヒットであり、エラーではなかったが、翌日の各スポーツ紙で「バンザイエラー」として取り上げられた。彼自身、この時に非常に悔しい思いをしたが、当時の監督長嶋茂雄に「君に取れないものは誰にも取れない」と言われ、また巨人ナインも「気象に文句をいうしかない」と評したという。 この年に初リーグ優勝を経験し、日本シリーズにも初出場。長嶋の監督として初となる日本一に貢献した。特に、このシリーズの第2戦の最終回の同点を阻止した(自ら作ったピンチを帳消しにした)ダイビングキャッチで勝利に貢献した。 1995年はシェーン・マックの加入もあって出場機会が減り、この年限りで引退。ゴールデングラブ賞5回、盗塁王3回と守備と走塁には、絶対の自信を持つ選手であった。 現役引退後は、1996年から1997年まではテレビ神奈川(TVK)、2000年から2003年まではRFラジオ日本の野球解説者、1998年から1999年と2004年から2005年の二度にわたり巨人外野守備走塁コーチを務めた。また、2001年から2008年にかけて開催されたプロ野球マスターズリーグでは、東京ドリームスの外野手として活動した。 二度目の巨人コーチから退いた後は、少年野球の指導に力を入れ〔外部リンク『【あの人は今こうしている】横浜ベイスターズの看板選手として活躍した屋鋪要さん』(ゲンダイネット2012年2月24日掲載)を参照。〕〔、公益社団法人少年軟式野球国際交流協会の理事をつとめている。その一方で、SLカメラマン〔や鉄道評論家〔としても活動している。2007年からは再び野球解説者としても活動。 2014年から神奈川大学の硬式野球部の臨時コーチに就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「屋鋪要」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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