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山一抗争(やまいちこうそう)は、1984年(昭和59年)8月5日から1989年(平成元年)3月30日にかけて山口組と一和会の間に起こった暴力団抗争事件。317件の大小抗争が発生し、一和会側に死者19人、負傷者49人、山口組側に死者10人負傷者17人、警察官・市民に負傷者4人を出した〔飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.91〕。抗争の直接の逮捕者は560人に及んだ〔。 == 背景 == 1984年6月5日午後3時、山口組直系組長会で山口組若頭の竹中正久は、四代目組長就任の挨拶をした。だが、この席上には山口組組長代行山本広を支持する直系組長は出席せず、山本ら約20人〔山本広と行動を共にしたのは、加茂田重政(加茂田組組長)、佐々木道雄(佐々木組組長)、溝橋正夫(溝橋組組長)、北山悟(北山組組長)、松本勝美(松美会会長)、小田秀臣(小田秀組組長)など。〕は大阪市東区の松美会事務所で在阪のマスコミ各社を呼んで記者会見を開き、竹中の四代目組長就任に反対した。反竹中派の山口組直系組長は翌日にも山菱の代紋を組事務所から外し、ここに分裂は決定的となる〔この段階で竹中支持派は直系組長42人で総組員数4690人、反竹中派は直系組長34人で総組員数6021人だった。〕。6月8日には兵庫県警察と姫路警察署が、竹中組事務所への家宅捜索を行なっている。容疑は、1982年7月の竹中組と小西一家との喧嘩の際に使用された拳銃が竹中組事務所に隠されていることと、同年8月に竹中組組員がサイコロ賭博に加わった、というものだった。 6月13日に反竹中派(=山本支持派)は「一和会」を結成。会長は山本が務めた。副会長兼理事長には加茂田が就任した〔この時加茂田は、実弟の俊治(神竜会会長)を理事長補佐に据え、同じく実弟の勲武(政勇会会長)を常任理事に据えている。〕。だが、この時既に小田秀臣(発足時のポストは副会長)や福井組組長福井英夫〔宅見組組長宅見勝に説得されて引退を決めた。〕、弘田組組長弘田武〔この際弘田組の若頭だった司忍(後の山口組六代目組長)が弘田組を引き継ぎ、弘道会を結成した。〕が一和会への参加を取り止めてヤクザから引退するなど、早くも脱落が目立ってくる。 一方、竹中は、6月21日に田岡邸大広間で舎弟23人、若中46人と固めの盃を執り行なった。23日には執行部の陣容を整え、山口組若頭に中山勝正(豪友会会長)、舎弟頭に中西一男(中西組組長)、筆頭若頭補佐兼本部長に岸本才三(岸本組組長)を据えた。若頭補佐には渡辺芳則(山健組二代目組長)、宅見勝(宅見組組長)、嘉陽宗輝(嘉陽組組長)、桂木正夫(一心会会長)、木村茂夫(角定一家総長)を起用している〔自らの組だった竹中組は実弟の武が継ぎ、武は直系若衆になった。更に同じ実弟の正を竹中組相談役に就けた。〕。 山口組襲名式は、7月10日に徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で執り行なわれた〔後見人は稲川聖城(稲川会会長)。取持人は諏訪健治(諏訪一家総長)。推薦人は堀政夫(住吉連合会=後の住吉会会長)と図越利一(会津小鉄会=後の会津小鉄会長)・大野鶴吉(大野一家総長)・辻野嘉兵衛(今西組組長)・松浦繁明(松浦組組長)・平田勝市(大日本平和会会長)・平井龍夫(森会会長)・草野高明(草野一家総長)。見届け人は翁長良宏(三代目旭琉会会長)。媒酌人は津村和磨(大野一家義信会会長)。霊代は、田岡文子だった。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山一抗争」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yama-Ichi War 」があります。 スポンサード リンク
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