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山下 梅鶴(やました ばいかく)は幕末の広島藩士。代官主席、宮島奉行。 == 経歴 == 文化2年閏8月27日(1805年10月19日)、安芸国広島城下鉄砲町に笹村正彦の次男として生まれた〔。父は後に旧姓山下に復した〔。 藩校学問所に学問を学び、奥氏に自由斎流砲術を学んだ〔小鷹狩元凱「略伝 其二」『弘洲雨屋虫干集』〕。ゲベール銃に触れて西洋技術の優位性を認め、嘉永2年(1849年)種痘が伝来すると、いち早く11月子供に藩医三宅養春から種痘を受けさせるなど、進取的な思想を持った〔。また、大藤一泉に二条派和歌を学んだ〔。 天保11年(1840年)4月18日父が致仕し、7月1日跡目相続して馬廻となり、天保12年(1841年)7月4日大小姓に進んだ〔。 天保15年(1844年)3月12日参勤交代に伴い江戸へ発ち、弘化2年(1845年)5月帰藩した〔。 弘化4年(1847年)7月27日代官となり、当初備後国御調郡甲奴郡支配、次いで三次郡恵蘇郡支配、安芸国高田郡高宮郡支配、佐伯郡山県郡支配を歴任した〔。 嘉永5年(1852年)閏2月17日代官筆頭となり、安芸国賀茂郡支配、安政4年(1857年)閏5月19日備後国奴可郡三上郡支配、安政6年(1859年)7月24日代官主席、郡廻格となり、安芸国沼田郡安芸郡支配〔。 文久3年(1863年)5月7日宮島奉行となり、30日塔岡の奉行所に着任〔、大鳥居の改築等を行った〔。 慶応3年(1867年)6月24日郡廻、勘定奉行格となり、7月広島に戻った〔。宮島御用向も兼帯し、12月解任された〔。 明治2年(1869年)版籍奉還により知藩事配下となり、8月24日内務長に就任したが、11月6日人員削減により罷免され、明治3年(1870年)2月11日二男磐次郎に家督を譲った〔。明治5年(1872年)7月2日戸籍名を梅鶴とした〔。 明治8年(1875年)7月16日午後3時死去し、18日大手町六丁目明信院に葬られた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山下梅鶴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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