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山中長俊 : ミニ英和和英辞書
山中長俊[やまなか ながとし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
山中 : [さんちゅう]
 【名詞】 1. among the mountains 
: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
: [じゅん]
 【名詞】 1. excellence 2. genius

山中長俊 : ウィキペディア日本語版
山中長俊[やまなか ながとし]

山中 長俊(やまなか ながとし、天文16年(1547年) - 慶長12年2月24日1607年3月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名山中為俊の子。官位は従五位下山城守。山中橘内(やまなか きちない)を名乗り、通称:山きち。橘内は吉内とも書く。子は山中信俊山中友俊(俊友)、山中盛俊。近江六人衆の一人。
== 来歴 ==
近江国甲賀郡の出で、甲賀二十一家の山中氏の庶流(南北朝時代に分かれている)。
はじめ六角氏に仕えて、永禄11年(1568年)9月に織田信長によって六角義賢が居城を追われた際は、これを甲賀郡に保護して信長と抗戦している。天正元年(1573年)9月には石部城に籠城、包囲軍の佐久間信盛配下の将・林寺熊之介を討ち、義賢から感状を受けた。しかし、天正2年(1574年)4月に石部城が開城すると織田氏の家臣となり、柴田勝家に属し3000石を与えられ家老となる。北陸方面での攻略においては勝家の発給文書に副状を添えたり、河田長親の誘降工作を担当しており、勝家に重用されている事が窺える。天正11年(1583年賤ヶ岳の戦いにおいて柴田氏が滅亡した後は丹羽長秀に仕えたが、長秀の死後に家中が乱れたため、堀秀政に寄食した。
天正13年(1585年)に豊臣秀吉に召し出され右筆となり、天正18年(1590年)の小田原征伐奥州仕置に従軍し、外交折衝などで活躍した。文禄元年(1592年文禄の役では肥前国名護屋城に在陣。文禄2年(1593年)以降、豊臣家蔵入地の越前国北袋銀山代官、筑前国蔵入地代官などを歴任し、同年9月に100石を加増された。同年、山城守に叙任され、豊臣姓を下賜された。文禄4年(1595年)には、1万石となり大名に列した。所領は摂津国西三郡、河内国中部、近江国伊勢国に分散していた。その後、畿内太閤蔵入地3万石の代官となる。
また、秀吉の命により『太平記』の続書として長編歴史書『中古日本治乱記』を執筆。貞治元年(1362年)から慶長2年(1597年)まで執筆したところで秀吉が死去したが、のちに太田資方の勧めで増補し、関ヶ原の戦いの終結までを執筆して完成させた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は、西軍に属し大坂城留守居・守備隊として大坂城周辺を守備した。このため、戦後に改易となり、徳川氏より微禄を与えられたが京に隠棲し、慶長12年(1607年)同地で死去した。墓は西教寺(現・大津市)。法名は紹春。
なお、長俊の孫(信俊の子)の山中幸俊は、豊臣秀頼に仕え大坂の陣に参加した。豊臣氏滅亡後は浅野長晟に仕え、子孫は広島藩士として存続した。また、信俊の次男の山中宗俊は、徳川家康に仕え、慶長14年(1609年)に1000石を賜り旗本となり、大坂の役では永井直勝の組に属し従軍した。子孫は旗本として存続している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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